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常設展示のご案内

由良川水系の地形

 

綾部市の地形分類
 綾部市は、多くの面積が山地に占められています。しかし、山地をぬって流れる河川の両岸には、氾濫の時に土砂が堆積してつくられた、氾濫原(低地)があります。そして、低地と山地の間には河岸段丘(台地)がしばしば見られます。
 河岸段丘は、氷河時代(数十万〜一万年前)の河川の氾濫原です。それが河川の浸食で削り残されて、台地状になっているのです。河岸段丘は高い方ほど古く、順に高位・中位・低位の3段に区分されます。

由良川
 由良川は丹波・若狭・近江の国境にある三国岳の近くから流れ出します。丹波山地の山々を削り、深い谷を刻みながら流れてきて、綾部の町並みをみるようになると急にその幅を広げます。ここまで来ると、北方に風化しやすく侵食に弱い火成岩の山地があり、それを削って山間盆地ができたのです。両岸には、昔由良川の氾濫原である河岸段丘が台地状の地形をつくっています。
 福知山へ来ると流れを北に向け、再び山あいをぬって流れて、宮津市由良で日本海に注ぎます。延長146km、流域面積1,880kuの日本で第33位の河川です。

生活の場
 氾濫原には、川の流路の跡(旧河道)や、氾濫した時に土砂が厚くたまってできた高まり(自然堤防)、その背後にあって排水の悪い湿地(後背湿地)などがみられます。自然堤防は排水がよく、比較的浸水しにくいので、昔から人々の低地における生活の場としてよく使われてきました。
 綾部の市街地の付近にも、自然堤防上に遺跡(青野遺跡など)や、集落(栗町中島など)があります。

 

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由良川水系の地形

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狩の時代 −旧石器・縄文時代−

 

 数万年に及ぶ人類の歴史のうち、じつはそのほとんどが「狩の時代」であり、その長さに比べれば、農耕社会はほんの数千年にしかすぎません。
「狩の時代」とは、「石器」つまり石を道具とした時代で、人はさまざまな石器を使って獣や魚・貝あるいは木の実をとって暮らしていました。
 日本ではこの時代を第一の段階(旧石器時代)と第二の段階(縄文時代)に分けています。

氷河期の終わり
 氷河期の終わりごろとはいえ、まだ気温は低く、風景も今とはすこし違っていました。そのころ、ナウマンゾウやオオツノジカを追って、我々の祖先が綾部に移り住んできました。彼らの実態はまだよくわかっていませんが、その足跡を、以久田野や上杉に出土する石器で確認できます。

ドングリ拾い
 今からおよそ一万年前ころから、気候はしだいに温暖化し、自然は豊かな恵みをもたらしました。「狩りの時代」とはいうものの、野山で獣を狩ってばかりいたのではありません。じつはドングリなどの木の実を主食としていて、またこのころ、土器を発明して煮炊きするようになりました。これを縄文土器と呼び、この時代を縄文時代といいます。

投槍から弓矢へ
 縄文時代に狩りの方法が大きく変化しました。弓矢の発明です。それまで、狩りの手段はもっぱら木の柄の先に石器を付けた槍でした。投槍に比べて、「石鏃」と呼ばれる石器を先に付けた矢を射ることにより、ずっと速く、ずっと遠くへ飛び、的中率もあがったのです。また、狩りに犬を使うようになったのも、このころからです。

 

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狩の時代

 

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稲作の始まり −弥生時代−

 

 いまからおよそ2千数百年前、大陸からもたらされた一粒の籾は地に落ち、やがて日本列島のすみずみで実を結びました。こうしてわが国の米作りを基盤とした農耕社会が始まり、現在に至っています。
 私たちは、この革命的ともいえる食料生産段階への変革の時代を「弥生時代」と呼んでいます。
 弥生のムラ
 弥生時代のムラは、水を確保しやすい低湿地に水田を拓き、近くの微高地に住居を構えるのが通例です。
 ふつうのムラは、5〜10棟ほどの竪穴式住居(一般居住用)と1棟の大型の建物(集会所など)及び1・2棟の倉庫で構成されています。
 また、ムラの周囲には濠を幾重にも巡らせ、濠によってムラを区画し、また排水をよくするとともに、いざというときには防禦の役目をもたせました。
由良川中下流域の主な弥生時代遺跡
 由良川中下流域では水系に沿って遺跡が分布しています。その多くが沖積低地の中の微高地、または丘陵の先端に立地しています。

青野・青野西遺跡
 青野・青野西遺跡は、市内を代表する弥生集落遺跡で、自然堤防上にあって帯状に細長く立地します。これまで数多くの発掘調査がおこなわれ、貴重な遺構や遺物を検出しています。
 弥生時代の住まいはもっぱら竪穴式住居です。竪穴式住居は地面を掘りくぼめて床面とするところに特徴があり、屋内は夏涼しく、冬は暖かいのです。
 青野遺跡第3次調査では弥生時代末期の住居跡を検出しています。平面形が円形から方形に変化していく様子がわかります。【青野町青野遺跡・青野西遺跡】

 

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稲作の始まり

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古墳の時代 −古墳時代−

 

 日本の歴史上、大きな墓を造ることにこだわった時代がありました。畿内の大王はもとより、各地の王や、末は有力農民までが、競うように盛り土をした墳墓を造ったのです。これらの墓を古墳と呼び、その時代を古墳時代といいます。それは国家というものが誕生しようとする時期でもありました。 

古墳におさめられたもの(副葬品)
 王の眠る棺内外には多数の品々が副葬品としてそえられました。鏡や玉類、武具・馬具などです。それらの量や質は古墳のランク、すなわち王の力を反映し、また副葬品にみられる特性は王の性格やあるいは王と王の交渉を物語るものです。

王の馬
 古墳時代に乗馬の風習が大陸から伝わり、王権のシンボルとして王の馬はさまざまの金具で飾られました。その馬具が各地の古墳から出土しています。

王の家
 各地の王は、みずからの墓を特別大きくしたように、住まいもまた、民衆とは異なる大邸宅を構えました。古墳にたてならべた家形埴輪は、それを表現したものです。【高槻町野崎4号墳】

民の墓
 一般民衆は、ムラの近くの集団墓地に、ただ穴を掘って埋められました。【豊里町三宅遺跡】

まだ竪穴式住居
 炊事の場が炉にかわってカマドとなっています。【青野町青野西遺跡】

民衆のくらし
 古墳の王が家形埴輪にみられるような立派な居館をかまえていたのに対し、民衆はあいかわらず竪穴式住居に住んでいました。大陸から渡来した新技術は王のためのものであったが徐々に民の生活にも浸透していきました。大規模な灌漑によって耕地は広がり、農具の鉄器化は収穫高を増しムラは大きくなりました。

由良川中流域の主要古墳
 由良川中流域には、1000基をこえる数の古墳があります。それらのほとんどは小さな方墳または円墳で、全長100mをこえるような大型の前方後円墳はみあたりません。しかし、聖塚古墳や私市円山古墳のように前方後円墳に匹敵する巨大な方墳・円墳が存在し、当地独特の古墳文化を形成しています。

吉美盆地の景観(5世紀前半)
 吉美盆地にある聖塚古墳・菖蒲塚古墳は四角いおおきな古墳です。古墳は王の舘を見下ろす小高い丘の上につくられています。段築成した墳丘に何万個もの石を葺き、埴輪をたてならべています。優れた土木技術と周辺のムラから集められた民衆たちの労働力によるものです。【多田町聖塚古墳・菖蒲塚古墳】
 私市円山古墳
 私市円山古墳は、およそ1,500年ほど昔に造られた王の墓です。古墳は私市の丘の上に築かれ、遠くからでもよく見えます。その直径は約70mの円形で、京都府内最大の円墳です。3段に作られた斜面には、石が葺かれ、埴輪列がめぐっています。古墳の頂には3つの埋葬施設があり、棺内からは、よろい・かぶとをはじめとしてたくさんの品々(副葬品)が見つかりました。中でも「胡簶(コロク)」と呼ばれる金銅張りの矢袋は、珍しい貴重なものです。
 私市円山古墳に葬られた人物の名前はわかりません。しかし、棺に供えられた品々から、由良川中流域を支配したであろうことが予想されます。【私市町私市円山古墳】

 

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古墳の時代

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律令制度のもとで −奈良〜平安時代−

 

 古墳時代の終わりとともに、わが国では急速に古代国家の完成を目指して突き進み、中央集権的な律令国家体制を築きあげました。
 綾部も丹波国何鹿郡としてその体制に組み込まれていきます。もはや古墳造りはすたれ、人々の関心は寺院の建立へと移ってしまいました。
 ムラから郡衙へ
 青野南遺跡・綾中遺跡の発掘調査から、竪穴式住居群からなる古墳時代集落に掘立柱建物群があらわれ、しだいに郡衙へと変遷・整備されていく様子がうかがえます。

何鹿郡衙と綾中廃寺
 むかし奈良に都があったころ、わが綾部の青野・綾中あたりでは、寺院の塔が高くそびえ、その向うに何鹿郡衙(郡役所)がひろがっていました。由良川から船で様々な物資が運び込まれ、にぎわっていたことだろうと思います。

郡衙のなかでは
 郡衙の長官(郡司)となったのは、在地の豪族で、郡衙の役人はすべて現地採用されるのが常でした。
 役人の生活は昔も今とさほど変わりません。きちんと文書に記し、何事にもミスのないようにつとめました。当時、紙はまだ貴重品だったので、文書は木札に書きました(木簡)。
 むかし綾中に古代の寺院があったことなどは、古文献には一言も記されてはいません。寺院があったことを物語る多量の瓦をはじめとする資料は、工事中あるいは発掘調査などによってすべて「掘り起こした歴史」なのです。

何鹿16郷
 現在の綾部市は、古代丹波国何鹿(イカルガ)郡に当たり、郡内はさらに16の郷に分けられていました。
 加美(カミ)郷・拝師(ハヤシ)郷・八田(ヤタ)郷・吉美(キミ)郷・高津(タカツ)郷・志摩(シマ)郷・文井(アヤイ)郷・栗村(クリムラ)郷・私部(キサイチ)郷・高殿(タカドノ)郷・小幡(オバタ)郷・物部(モノベ)郷・吾雀(アススギ)郷・漢部(アヤベ)郷・三方(ミカタ)郷・余戸(アマルベ)郷
ムラの祭り
 このころ、都でも地方でも、また上流階級も一般庶民も、祭り事や呪い事をよくおこなっていました。それらは今日の祭り事のもとになっているものが多くあります。
 土製の馬形をつくって溝や川に流すのは古代の厄除け祈願です。カマドは竪穴式住居内で、ごはんを炊く(炊事)だけではなく、そこに燃える火は屋内を暖め(暖房)、また暗い室内を照らす(照明)など、とても大切な場所でした。そこで人は神を祭るとき、カマドの土製品をつくって神に捧げたのです。

まだまだ竪穴式住居
 一般のムラでは掘立柱建物も建ちはじめますが、庶民の住まいはまだまだ竪穴式住居です。
 古墳時代の終わりごろから、青野遺跡を中心に「青野型住居」と呼ばれる独特の平面形をもつ竪穴式住居があらわれます。

 

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律令制度のもとで

 

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武士の時代 −中近世−

 

 平安時代の半ばをすぎると、律令制度は衰えはじめ、土地の私有化がめだつようになり、荘園が生まれました。
 その荘園のなかから武士が成長してきて、時代は中世・近世へと連なっていきます。
 何鹿郡は、小盆地の多い地形の複雑なところです。そのためか、中近世をとおして、郡内は多くの領主によって複雑に治められていました。
 やっと掘立柱になりました―西町遺跡―
 西町遺跡は市内の中世村落跡として発掘調査されている遺跡です。掘立柱建物が整然と並んでおり、板枠の井戸などもみつかっています。
 2時期の建物群(12世紀末〜13世紀初頭)がみられますが、もはや竪穴式住居はみられません。

中世荘園の村々
 何鹿郡では、京都の寺社を本所とする荘園が平安時代末期ころからあらわれてきます。安国寺文書では、南北朝のころの荘園領主の変遷や荘内で成長する武士の動きがみられ、また郷村がしだいに形成されていく様子をみることができます。

安国寺と足利尊氏
 征夷大将軍となった足利尊氏は国ごとに安国寺を置くこととしました。そして、綾部の八田郷にあった光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭としたのです。光福寺は尊氏の母清子の実家である上杉氏の氏寺でした。安国寺では尊氏の母上杉清子が男子出生を寺にある地蔵菩薩に祈願して尊氏が産まれたと伝えています。

中近世の城館分布
 城の数の多さは、複雑な地形の影響によるものか、あるいは、武士たちの栄枯盛衰の激しさを物語るのでしょうか。

平山城館跡
 城の急斜面に何本も掘られた竪堀は、敵を迎え撃つためのものであり、まさに戦乱の世を彷彿とさせます。
 丹波国(6郡合わせて29万石余)には、7大名が本拠地をかまえていましたが、その他旗本・公家・寺社領を合わせた領主数は、じつに60余人に及びます。何鹿郡内でも1村に4〜5人の領主が入り込む(相給地)ことが珍しくありませんでした。【元禄13年(1700)の大名・旗本領(元禄13年の知行所村高付帳による)】
 山家藩は一万石で、谷氏が陣屋を広瀬町に置き、治めていました。綾部藩は二万石で、九鬼氏が陣屋を上野町に置き、治めていました。

 

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武士の時代

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これまでの特別展示

 

平成5年度
第1回
平成6年度
第2回
平成7年度
第3回
平成8年度
第4回
平成9年度
第5回

木簡の旅

ヒミコの箱

名探偵登場

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平成10年度
第6回
平成11年度
第7回
平成12年度
第8回
平成13年度
第9回
平成14年度
10
Dust・Box
あやべ歴史の道
丹波焼展
由良川歴史散歩

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平成15年度
11
平成16年度
12
平成17年度
13
平成18年度
14
平成19年度
15回
古墳交響曲
忠左衛門代官日記
題名のない展覧会
歴史は蔵の中
絵でみる考古学

 

平成20年度
16回
平成21年度
17回
平成22年度
18回
平成23年度
19回
平成24年度
0回
しるしー古代人
の暗号を解けー
何鹿の匠
庚寅の頁
左豪の絵師
素后 
王者の証し

 

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