綾部市指定文化財一覧

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区分

種別

指定年月日

名称

員数

所在地

市指定

建造物

S45.3.20

宝篋印塔

3基

安国寺町

市指定

建造物

S50.9.11

石碑

1基

十倉名畑町

市指定

建造物

S50.9.11

宝篋印塔

1基

睦寄町

市指定

絵画

S49.3.27

絹本著色 釈迦十六善神画像

1幅

舘町

市指定

絵画

S50.9.11

紙本淡彩墨画 白衣観音図

1幅

武吉町

市指定

絵画

S62.4.1

本堂襖絵

34(24)

八津合町

市指定

絵画

H11.6.22

紙本著色 八幡縁起絵

1巻

高津町

市指定

絵画

H11.6.22

紙本淡彩墨画 大槻辰高像

1幅

高津町

市指定

古文書

S63.4.1

楞厳寺縁起

1巻

舘町

市指定

古文書

S50.9.11

敷地紛失状

1通

舘町

市指定

古文書

S44.4.1

足利尊氏寄進状

1通

七百石町

市指定

古文書

S50.9.11

足利尊氏寄進田数目録

1通

七百石町

市指定

古文書

S50.9.11

織田信長朱印状

1通

個人蔵

市指定

古文書

S50.9.11

紙本墨書 勧進状・奉加帳

1通・1冊

睦寄町

市指定

古文書

S50.9.11

織田信長感状

1通

個人蔵

市指定

古文書

S50.9.11

豊臣秀吉感状

1通

個人蔵

市指定

工芸品

S44.4.1

文の鳥

1躯

舘町

市指定

工芸品

S50.9.11

銅造 聖観音立像

1躯

坊口町

市指定

工芸品

S60.4.1

経櫃懸子

1組

上延町

市指定

書跡

H8.11.27

大般若経

596

志賀郷町

市指定

書跡

H11.6.22

紙本墨書 高津御山八幡宮勧進状

1巻

高津町

市指定

書跡

S45.3.20

大般若写経

30巻

上延町

市指定

書跡・

工芸品

S49.3.27

大般若経と経櫃

181巻・1

舘町

市指定

彫刻

S49.3.27

木造 阿弥陀如来立像

1躯

白道路町

市指定

彫刻

S49.3.27

木造 熊野十二所権現像(菩薩形立像4・僧形立像2・蔵王権現像1・十一面観音立像1)

8躯

別所町

市指定

彫刻

S45.3.20

木造 大日如来坐像

1躯

里町

市指定

彫刻

S45.3.20

木造 虚空蔵菩薩立像

1躯

里町

市指定

彫刻

S49.3.27

木造 地蔵菩薩半跏像

1躯

上杉町

市指定

彫刻

S63.4.1

木造 大日如来坐像

1躯

武吉町

市指定・府登録

彫刻

S60. 4. 1S61.4.15

木造 随身坐像

2躯

五津合町

市指定

彫刻

H1.4.1

木造 随身倚像

2躯

睦寄町

市指定

彫刻

S49.3.27

木造 阿弥陀如来坐像・観音菩薩立像・勢至菩薩立像・二天像

5躯

睦寄町

市指定

彫刻

S50.9.11

木造 晋明国師坐像

1躯

睦寄町

市指定

彫刻

H11.6.22

木造 獅子・狛犬

1対

高津町

市指定

彫刻

S45.3.20

木造 千手観音立像

1躯

寺町

市指定

彫刻

S45.3.20

木造 薬師如来坐像

1躯

味方町

市指定

無形民俗文化財

S51.3.5

ヒヤソ踊

 

高倉町

市指定

無形民俗文化財

S41.9.1

太鼓おどり(テンテコテン)

 

中筋町

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綾部市指定文化財解説

 

文の鳥

指定年月日

昭和44年4月1日 市指定

時代

鎌倉時代

寸法

高さ19.7cm

ポイント

・栗村荘の荘官源光高の寄進

・神輿の飾り

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 神輿の頂部を飾る鳥には鳳凰が用いられるが、ここでは「文の鳥」と呼ばれ、銅板を曲げていくつか組みあわせて造られたものである。脚は鋳銅、他は打出鍍金、鋲打留で組みたてられており、技術的には稚拙で鄙びた感じがする。背後の刻印から栗村荘の荘官であった源光高が寄進したことがわかる。この「文の鳥」は鎌倉時代の作例として注目すべきものであり、遺例の少ない貴重なものである。なお、神輿の隅飾に用いる銅板打出造りの飛燕が一羽付属している。

 鎌倉時代の末ごろに郷土の神社に神輿があったことは興味深いことであり、民衆生活や庶民信仰を知る手がかりになるものであろう。

 

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絹本著色 釈迦十六善神画像

指定年月日

昭和49年3月27日 市指定

時代

室町時代

寸法

131.0cm57.0cm

ポイント

・伝統的な仏画描法

・玄奘三蔵が描かれる

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 釈迦十六善神は大般若経を転読する際の本尊で、釈迦如来を中心にそれを守護する十六善神を描いている。この画は金色の着衣をまとった釈迦如来を中央に大きく表し、その下方に文殊・普賢両菩薩をはじめ、笈を背負った玄奘三蔵や深沙大将が加えられ、その周辺には十六善神が配され、中央の釈迦如来を守っている。十六善神画像に玄奘が加えられているのは、遠く印度に大般若経を求めて苦労を重ね、漸く中国へ請来したことへの顕彰の意味なのかもしれない。

 描き方は伝統的な仏画描法で、金泥(キンデイ)や切金を多用して文様や輪郭を飾っているが、剥落がはげしいのが惜しまれる。

 

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楞厳寺縁起

指定年月日

昭和63年4月1日 市指定

時代

室町時代

寸法

25.3cm 横83.4cm

ポイント

・位田の乱を裏付ける

 この縁起によると室町時代の楞厳寺は、本堂五間四面、壁に十六羅漢や四天八菩薩を描いてあり、鎮守は二間三間の板葺で蔵王権現を祀っていた。延徳元年(1489)当地の荻野・大槻氏が丹波国守護代上原豊前守に叛して位田城に立籠った。そのとき守護の軍勢が楞厳寺へ打入り資財を奪取するなどの濫妨をはたらき、翌年には再び位田城攻めの陣屋となって、堂塔はすべて大破してしまった。明応6年(1497)寺僧達によって本堂再建の勧進を諸国に行い、文亀3年(1503)3月柱立、4月棟上にこぎつけ、盛大に法要を行った様子が記されている。その時の番匠棟梁は大伴三郎左衛門正広、本大工は今田六郎左衛門貞次、惣而柱立まで大工の数400余人、入目員数200貫米銭共とある。

 この文書は、戦国時代当地に起きた地方豪族の反乱(位田の乱)を裏付けるもので、詳細にわたって「蔭凉軒日録」の延徳の戦乱の記事と合致していて貴重である。

 

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敷地紛失状

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

南北朝時代(貞和5年=1349)

寸法

30.5cm 横90.2cm

ポイント

・南北朝時代の紛失状の遺例

・当時の在地のようすを示す史料

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 建武4年(1337)7月、この地方に戦乱があって、軍勢が楞厳寺に乱入し、寺坊などことごとく焼き払った。そのため伝えてきた寺領の敷地文書もなくなったので、伝領地を栗村荘の荘館が確認したのがこの文書である。文書は初めに寺領の東西南北の境界を記し、ついで寺領田の所在地・面積を記している。つぎに楞厳寺の縁起と本堂鎮守について述べ、さらに都の公卿入道二位家、入道三位家の菩提を弔っていることを述べている。こうした深い由緒のある寺院であるため、寺領の安堵を求めたものである。

 また楞厳寺が近衛家庶流松殿の菩提寺であったことを伝えていて興味深い。天正年中(157392)近衛龍山公前久が天橋立へ行く途中、舘町赤国神社に立寄った伝承もあり、近衛家と関係の深かったことが推察できる。

 末尾に寺僧の外、総追捕使、公文、下司(ゲシ)、預所など栗村荘の荘官が連署している。

 南北朝時代の紛失状の遺例として古文書学上でも注目され、当時の在地のようすを示す史料として貴重である。

 

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大般若経と経櫃

指定年月日

昭和49年3月27日 市指定

時代

平安時代〜安土桃山時代

寸法

経櫃 縦約70cm、横約43cm、高さ約45cm

ポイント

・平安時代の写経

・墨質紙質

・唐櫃の墨書

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大般若経

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経 櫃

 大般若経は全部で600巻であるが、楞厳寺に残されているのは181巻の経巻である。またその経巻の大部分は、湿気のため固着し容易に開くことができないが、数巻を開いてみると平安時代の写経と思われ、墨質紙質共に注目すべき優品である。

 この大般若経を収納する箱が唐櫃と呼ばれる箱で、内外面ともに漆塗り、脚は6脚ついている。覆蓋はケヤキの板で作られた合せ蓋で、身の側面と内底及び蓋の裏面に墨書の銘がある。

 その函の内底の墨書によると、天田郡にあった新宮院の良順阿闍梨が、応永32(1425)6月に函を修理したと書かれており、もとは大般若経は新宮院の所有であったことがわかる。さらに、函の裏の墨書から、天正4年(1576)に米二石で楞厳寺が買得したことが知られる。寺伝来のものではないけれども、写経の墨色といい紙質といい、注目に足る優品といえよう。

 

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木造 阿弥陀如来立像

指定年月日

昭和49年3月27日 市指定

時代

平安時代

像高

94.7cm

ポイント

・珍しい像容の阿弥陀如来像

・浅い衣文の彫り

和様(ワウヨウ)の面部

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 もと白道路町内にあった西方寺(室尾谷山観音寺末)の本尊であったと伝える。衣文の彫りが浅く、通肩(ツウケン)の着衣の襞はよく洗練されている。いわゆる清涼寺式釈迦如来像の形式がとられていることと、印相を示す両手が後補であるため、阿弥陀如来とするにはやや疑問が残っている。しかし頭部の形式や和様(ワウヨウ)の面部などからみて、珍しい像容の阿弥陀如来像であるといえよう。

 像は寄木造(ヨセギヅクリ)彫眼(チョウガン)で両肩から別材で正中矧ぎになっており、背板も2枚に分かれている。衣文の形式化があり、側面が偏平であることや相貌の堅さなどにより、時代が少し下がるとする見方もある。

 

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大般若経

指定年月日

平成8年1127日 市指定

時代

鎌倉時代〜室町時代

ポイント

・良好な保存状態

・ほぼ全巻が揃う

・識語

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 興隆寺は綾部市内では大般若経会を恒例行事とする数少ない寺院である。大般若経は、全巻596巻である。保存状況はほぼ良好である。ただし、全般に虫損する経巻が多い。すべて折本装で、ほとんどが写本である。版本が10巻あり、春日版も含まれる。古くは巻子装であったことがその状況から推察できるが、折本装に改めた年代は不明である。裏打修理は折本装に改められたのち行われたとみられる。

 識語には年代・地名・社寺名・人名など多くの地域史解明の手がかりとなる内容が断片的に記されている。

 興隆寺大般若経は複雑な経路をたどって伝来したことがわかった。鎌倉時代から現在までの歴史をたどることのできる史料である。

 

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木造 熊野十二所権現像

指定年月日

昭和49年3月27日 市指定

時代

平安時代

像高

十一面観音立像58.5cm

ポイント

・簡単な彫りのうちに平安時代の優美を表現

菩薩形立像4躯 僧形立像2躯

 蔵王権現像1躯 十一面観音立像1躯

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十一面観音立像

蔵王権現像

 各像とも平安時代後期の小像で、一木造(イチボクヅクリ)の素朴さの中に捨てがたい味わいがある。願成寺に伝えられる十一面観音立像は、ヒノキの一木造で、足のあたりが破損しているがほかは元の形を残し、平安時代の優美さをよく示している。天衣と着衣の間に胡粉(ゴフン)や赤色が見られ、彩色像であったことを物語っている。熊野神社蔵の菩薩形立像1躯はやや大きく、衣文などもていねいに彫られているが、他の5躰は衣文をほとんど彫らない素朴な像である。面貌の風化がはげしいが、胸部などの豊かさに平安時代の特色が見られる。蔵王権現像はヒノキの一木造で、上半身裸形とし、片足をあげる忿怒相につくられている。簡単な彫りのうちに平安時代の優美さを表している。

 この地は12世紀ごろ京都の新熊野神社の荘園吾雀庄である。熊野神社はその守護神として奉られ、願成寺は神宮寺であった。熊野信仰がそのころから当地に伝わっていたことを示していて注目される。

 

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銅造 聖観音立像

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

白鳳時代

寸法

高さ 15.7cm

ポイント

・白鳳期の製作

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 本尊の聖観音の胎内に納められている小金銅仏がこの聖観音立像である。

 頭部は半月形の髻に接して正面に舟形の飾りをつけ、その中に化仏(ケブツ)坐像を表わし、左右に半月形の花飾りをつけるいわゆる三面頭飾型である。冠紐は肩から体側に沿って臂下まで垂下している。台座に達する瓔珞(ヨウラク)をつけて天衣をかけ、両手は腹前で合わせ、裳をつけて直立する。小金銅仏特有の頭部をやや巨大に造る形で、正面観に主眼をおくが、裳裾は前後に大きく張って大きい頭部とのバランスを巧みに保っており、全体に調和のとれた安定感のよい姿である。現状は両臂から台座に至る天衣を欠いている。全体に焼け肌であるが、当初は鍍金が施されていたものと思われる。

 丹波丹後地方で唯一の白鳳期製作のものである。

 

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木造 大日如来坐像

指定年月日

昭和45年3月20日 市指定

時代

平安時代

像高

117.2cm

ポイント

・重厚な造型

・明快優雅な彫技

・平安初期の密教像の作風を忠実に表現

仏南寺 木造 大日如来坐像.jpg

 髻を結い条帛(ジョウハク)をかけ、智挙印を結び裳をつけて、右足を外に結跏趺坐(ケッカフザ)する金剛界大日如来である。肩の張り、腰部から膝にかけての重厚な造型は力づよく、着衣のおおまかで明快な表し方、面相の優雅な彫技によく時代の特色がうかがえる。髻は高く太く、面相部も長さに比べて幅があり、面奥も充分にとっている。この幅のある顔に目鼻立ちを中央に寄せて小さく刻み、眉を著しく切れ長に、唇は厚めに表現し、平安時代初期の密教像の作風を忠実に表現している。

 現在表面の彩色はほとんど剥落し、まだらになっているため像容を損なっているが、12世紀初頭を下らない作と思われる。

 

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木造 虚空菩薩立像

指定年月日

昭和45年3月20日 市指定

時代

平安時代

像高

165.8cm

ポイント

・平安時代の特色

仏南寺 木造 虚空蔵菩薩立像.jpg

 等身大の像で、髻を結い、条帛(ジョウハク)・天衣をかけて左手を曲げて宝珠をのせる蓮華を執り、右手は躰側に垂れ下げ、右足をわずかにゆるめて立つ姿である。頭部は量感豊かで、目鼻立ちの彫りは浅い。耳上の頭髪一条を幅広く巡らして、耳朶を貫通させずに表現する手法は古法によるものといえよう。肩幅広く、躰躯も太造りで、腰をわずかに左に引く体勢もおだやかで、全体に彫りは浅い。構造は内刳(ウチグリ)の大きな一木造(イチボクヅクリ)である。全身に傷みがあって時代の判定はむずかしいが、平安時代の特色をよく備えている。11世紀ごろの作と考えるのが穏当であろう。

 

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ヒヤソ踊

指定年月日

昭和51年3月5日 市指定

ポイント

・簡略化された田楽(デンガク)

・中世に始まる

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 毎年1010日に行われる祭礼には高倉町の本社から里町の御旅所へ神輿の行列があり、御旅所で田楽(デンガク)踊が奉納される。これがヒヤソ踊である。吉美地区6町から各4人都合24人のササラと、有岡町から出る太鼓・笛各1人によって行われる。裃姿の笛のほかはすべて子どもで、カスリの着物にタスキをかけハチマキをしめるのが正装である。ササラが円陣になり、その中央に笛、外に太鼓が立つ。笛が吹かれ太鼓が打たれるとササラは一斉に「ヤソヤソヤソ」と唱えながら右まわりにまわり「まず1番ソーオ」と言いながら首からかけたササラの串を1本後背におしあげる。同様にして12番を奉納する。

 たいへん簡略化された田楽で、中世に始まるものと考えられる。伝承によれば以仁王がこの地に落ちてきたときに村人たちが王を慰めるために始めたと言う。

 

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島万神社の太刀振・太鼓踊

指定年月日

昭和41年9月1日

 太鼓おどり(テンテコテン) 市指定

昭和60年5月15

 太刀振・太鼓踊 府登録

ポイント

・中世末から近世初期の芸能を伝える

・風流踊と振物がセット

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太刀振

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太鼓踊

 祭礼は現在1010日に行われる。傘鉾を先頭に参道を練り込み、拝殿を舞台にして向って右側で太刀振、左側で太鼓踊を演じる決まりで、同時に開始して同時に終るのがしきたりとなっている。

 太刀振は振物またはオンヤーとよばれ、二人一組が棒や刀・長刀で打合う。露払・妻隠し・小太刀・野太刀・小長刀・大長刀の6種がある。年少者が担当する露払から青年が担当する大長刀まで年齢階梯的な仕組みで演じられ、技も後者ほど激しく難しくなる。

 太鼓踊は真発意1人を中心に親発意1人・子発意2人の4人で構成された風流踊である。真発意と音頭は大人がつとめるが、親発意・子発意は少年少女の役とされる。もと13曲を伝えたが、今は長者踊・花の踊など6曲のみを奉納する。

 中世末期から近世初期にかけて流行した芸能を伝える代表的な例として貴重である。

 

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足利尊氏寄進状

指定年月日

昭和44年4月1日 市指定

時代

室町時代

寸法

31.0cm 横44.0cm

ポイント

・尊氏の祐筆疋田妙玄の筆

・祈願の賞

岩王寺 足利尊氏寄進状.jpg

 元弘3年(1333)4月、足利尊氏は丹波国篠村八幡宮で北条氏打倒・源氏再興の兵をあげた。このとき諸国の源氏に兵を募るとともに、諸社寺に戦勝祈願を求めた。岩王寺には上杉清子の兄兵庫入道憲房が来て祈願を命じ、寺では住持が一山の僧徒を率いて戦勝を祈願した。尊氏の軍によって京都六波羅が落ちた後、祈願の賞として八田郷内の田地2町が寄進された。その寄進状がこれである。

 この状は尊氏の祐筆疋田妙玄の手になるものである。

 

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足利尊氏寄進田数目録

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

室町時代

寸法

31.0cm 横87.9cm

ポイント

・尊氏が寄進した土地の内訳

・中世の田制を知る好資料

岩王寺 足利尊氏寄進田数目録.jpg

 この田数目録は、尊氏が寄進した土地の内訳で、八田郷上村内兼里名内正守田1町3反25代と、貞遠名内田6反25代の合わせて2町歩である。兼里名は現七百石町の小字金里、貞遠名は現上八田町の小字佐里にあたる。

 名田内の小字名・田積・斗代が詳しく記され、中世の田制を知る好資料である。田積の1段は50代。斗代は1段の田租の高である。

 都合田二町の内訳をみると、8斗代の田が最も多く、7斗代〜5斗代と順に少なくなっていて、田祖を合計すると15石8升となる。当時の生産高から考えて、相当に高率の年貢であったと思われる。

 

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宝篋印塔(ホウキョウイントウ)

指定年月日

昭和45年3月20日 市指定

時代

南北朝時代

規模形式

総高 158.6cm 174.5cm 153.3cm

ポイント

・足利尊氏所縁

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向かって左から 母清子・尊氏・妻登子と伝える

 境内東側に3基が並び、左から上杉清子・足利尊氏・赤橋登子の墓碑塔と伝えられている。安国寺文書には2代将軍足利義詮が、尊氏及び夫人登子の遺骨の一部を安国寺に納めた御教書(ミキョウショ)がある。尊氏のものは延文3年(1358)6月29日、登子のものは貞治4年(1365)7月16日の日付で、ともに「先年帰依之由緒」により当寺に奉納するとしている。

 3基とも無銘で、中央の塔は完形、左右のものは相輪部上部に欠損がみられる。全体の形や笠の隅飾突起などに南北朝時代の特色を示している。安国寺の歴史を物語っていて貴重である。

 

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織田信長朱印状

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

室町時代

ポイント

・上原氏の伝統的地位と実力を示す史料

・朱印の形

渡辺和三郎 織田信長朱印状.jpg

 織田信長が何鹿郡物部城主上原氏に宛てた下知文である。上原氏は鎌倉時代初期に信州から物部へ地頭として入った武士で、戦国時代まで在地領主としてつづいてきた。この文書により所領を安堵され信長に従ったものであろう。天下布武の朱印の形からみて永禄11(1568)ころのものと考えられる。

 

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木造 地蔵菩薩半跏像

指定年月日

昭和49年3月27日 市指定

時代

平安時代

像高

57.6cm

ポイント

・重量感ある造型

・豊かな肩や胸の張り

・端正な面相

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 片足を垂れて半跏(ハンカ)する地蔵菩薩で、延命地蔵ともいわれている。寄木造(ヨセギヅクリ)で、もとは彩色像であったと推定される。面相は端正で生真面目な表情につくられ、肩や胸の張りも豊かである。太い三道、腰部の重量感あふれる造型などに平安時代後期の様相を伝えている。

 構造は頭部全体を通じて一材から木取りし、両耳を通る線で前後に割り、さらに頭部を割り放している。両足部には横一材を用い、これに左足垂下部を寄せている。元文年間(17361740)に修理したことが像底板に記されている。

 地蔵信仰は庶民に根強く広まり、その像は非常に多いが、この像のように平安時代までさかのぼれるものは少ない。

 

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木造 大日如来坐像

指定年月日

昭和63年4月1日 市指定

時代

鎌倉時代

像高

90.8cm

ポイント

・上半身は平安末期の様相

・襞の彫りの形式化

玉泉寺 木造 大日如来坐像.jpg

 大日如来はもと武吉町の深山にあった薬師寺に祀られていた。天正のころ、明智光秀が福知山城を築くとき寺の建物を壊し運んだため、村人が諸仏を移し庵に祀ったと「丹波志」に記されている。それから近年まで武吉町の有志による「大日講」によって祀られてきた。

 彫眼(チョウガン)寄木造(ヨセギヅクリ)で、上半身は平安時代末期の様相をもったつくりであるが、膝が偏平であり、襞の彫りの形式化などがみられ、おそらく鎌倉後期から南北朝のころに地方仏師の手になったものであう。

 

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紙本淡彩墨画 白衣観音図

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

室町時代

寸法

93.1cm37.7cm

ポイント

・霊彩の画

・山水画に近い趣

玉泉寺 紙本淡彩墨画 白衣観音図.jpg

 白衣観音は「菩薩の心は白処に住す」という意味から名づけられたといわれ、15世紀ごろからは頭から布をかぶるきわめて実人的な姿に描かれるのが通例となり、観音の中でも最も女性的な優しさが表現されている。この図は室町時代の中ごろ、東福寺に住した画僧明兆の弟子霊彩の描いたものである。ねばりのある線で描かれ、人物が画面に比して小さく、周辺に景物が配されて山水画に近づいていく趣をもっている。

 

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石 碑

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

平安時代

規模形式

自然石

ポイント

・市内最古の金石文

河牟奈備神社 阿上社と石碑.jpg

河牟奈備神社 石碑.jpg

阿上社

石碑

 本殿右側に境内社の阿上社があり、永久2年(1114)の銘をもつ自然石の石碑を御神体としている。この石碑は平安末期の綾部市内最古の金石文である。

   阿上社

 (梵字) 妙法蓮華経安置所

   永久二年歳次甲午八月十四日 僧院暹記之

 刻銘は神仏習合を如実に示す好資料である。石碑については、経塚の標識とする説や江戸時代に再造立された石碑とする説もある。

 

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本堂襖絵

指定年月日

昭和62年4月1日 市指定

時代

江戸時代

ポイント

・元陳の晩年の大作

・永勝寺の襖絵

上林禅寺 本堂襖絵.jpg

 襖絵について、「藤懸山客殿襖記録」と題する寛政3年の詳細な記録がある。それによると永勝寺には昔から襖絵があったが、長年月の間に鼠や紙魚のための損傷がはげしかった。当寺十七世見龍和尚はこの襖絵の修復を発意し、所々奔走のすえ、南禅寺に関係のある元陳に依頼した。元陳はこれを承諾し、寛政3年(1791)9月にこの絵を完成した。

 画題は墨画獅子図12面、寒山拾得図4面、四季花鳥図6面、竹林七賢図4面、淡彩四季山水図8面の計34(24)である。

 この襖絵には「寛政辛亥夷則・法眼(ホウゲン)元陳画」の款記(カンキ)がある。元陳は姓を吉田、諱を守清といい、法眼の位まで上った当時屈指の画家である。寛政2年(1790)の御所造営には円山応挙などとともに活躍しており、この襖絵は彼の晩年の大作として貴重なものである。

 なおこの襖絵は昭和59(1984)から3か年をかけて全面修理を施し、面目を一新した。

 

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木造 随身坐像

指定年月日

昭和60年4月1日 市指定

昭和61年4月15日 府登録

時代

室町時代(応永32年=1425)

作者

林皎圓宗

像高

阿形38.6cm 吽形38.5cm

ポイント

・室町時代の神像彫刻の基準作

・墨書により由緒が明らか

室尾谷神社 木造 随身坐像@.jpg

室尾谷神社 木造 随身坐像A.jpg

 随神は主神を守護する。(ホウ)を着け巾子冠(コジカン)を頂く。膝以下が彫り直されているので当初の姿はわからないものの、両足を垂らしていた可能性が高い。ともに目を瞋らし、口は阿吽の形に造り分けられている。両像とも頭と体をそれぞれ桧の一材からつくり、首枘差しとする。内刳(ウチグリ)は施していない。両像とも欠損部分が所々にみられ、特に吽形像の左後頭部が大きく欠損している。阿形像では左手首先・持物・彩色を後から補い、右手は欠失している。材質の異なる脚部も後補と思われる。吽形像は左手首先・彩色・持物が後から補ったもので、欠落している右手先や脚部も後補と思われる。

 両像とも、全体に神像通有の簡素な作風を示す。体部の形式化が進み、時代の下降を思わせる。各像の像底部及び吽形の首枘底面に墨書があり、製作年代・願主・檀那・仏師・絵師などを知ることができ、室町時代の神像彫刻の基準作のひとつとして注目される。

 

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木造 随身倚像

指定年月日

平成元年4月1日 市指定

時代

室町時代(康正3年=1457)

作者

林皎圓宗

像高

阿形70.0cm 吽形72.0cm

ポイント

・墨書により由緒が明確

坂尾呂神社 木造 随身倚像@.jpg

坂尾呂神社 木造 随身倚像A.jpg

 両像は巾子冠(コジカン)をいただき、(ホウ)をつけ、床几に腰をかけ、両足を踏み下げている随身像である。口をわずかに開いている阿形は両手を膝の上に置いて端座した形、口を閉じた吽形は右手を膝の上に置き、左手を横に伸ばしている形で、他はほぼ同形である。表面は彩色されていたが、今は大きく剥落している。全体に簡潔でよく整った像である。両像とも像底にほとんど同文の銘文が墨書されている。

 

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木造 阿弥陀如来坐像・観音菩薩立像

・勢至菩薩立像・二天像

指定年月日

昭和49年3月27日 市指定

時代

平安時代

像高

阿弥陀58.1cm、観音150.3cm、勢至152.2cm、二天140.5cm140.7cm

ポイント

・平安時代の作風

下庄最寄 木造 観音菩薩立像.jpg

下庄最寄 木造 阿弥陀如来坐像.jpg

下庄最寄 木造 勢至菩薩立像.jpg

観音菩薩立像

阿弥陀如来坐像

勢至菩薩立像

下庄最寄 木造 二天像A.jpg

下庄最寄 木造 二天像@.jpg

二天像

 堂内に阿弥陀三尊像が祀られ、その前に二天の像が配されている。阿弥陀如来坐像はヒノキの一木造(イチボクヅクリ)で、これに両足部を矧寄せ、上品中生印を結び、通肩(ツウケン)であるのが特徴である。頭部は肉髻(ニクケイ)が高く盛り上がり、裸髪は大粒で、肩をいからせ胸腹部は肉取り厚く、大きく張った両足部には充実感があって、平安時代初期の特徴をよく備えている。衲衣の衣文は太く、両足部では深くくんだ足首に引き込まれている。像全体のいたみが甚だしく、後世の泥地彩色によって、像表面が厚くおおわれているが、10世紀ごろの作と考えられる。脇侍の観音菩薩と勢至菩薩も平安時代後期の作と考えられるが、後世の補修と彩色が稚拙なため、像がいたんでいるのはおしい。

 二天像は四天王(シテンノウ)の内の二天だけが造られたと思われる。像容に力感が溢れており、刀法も優れている。彩色は剥落しているが後補がないためかえって良さを残している。平安時代後期の作であろう。

 

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木造 晋明国師坐像

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

室町時代

像高

60.3cm

ポイント

・室町時代の肖像彫刻

金剛寺 木造 晋明国師坐像.jpg

 像は等身より小ぶりで、上瞼を山形につくった両眼や、固くへの字に結んだ口元には禅僧らしい意志的な性格と、老いた妙葩の特徴をよく表している。造像の時期は室町時代をそうさかのぼるものではないが、全体にまとまりよく、京都鹿王院像など今日知られている妙葩の彫像のなかではできのよい作例として注目される。裳裏面に朱書銘がある。

 晋明国師春屋妙葩(13111388)は夢窓国師の弟子で、将軍義満から禅林を統轄する初代の僧録に任ぜられた高僧である。国師は管領細川頼之と対立し、一時舞鶴の雲門寺に隠棲した。その間京都との間を度々往復し、当地に休息するのを常としていた。

 

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宝篋印塔(ホウキョウイントウ

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

南北朝時代

規模形式

総高201.9cm

ポイント

・南北朝時代の優品

光明寺 宝篋印塔.jpg

 本堂右側に置かれている石造のものである。基礎四面とも輪郭をまき、格狭間(コウザマ)を入れて開花蓮をもりあげ、上部の反花・笠の隅飾り等細部にわたるまでていねいな手法で仕あげた完形品である。無銘であるが南北朝時代の優品である。

 

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紙本墨書 勧進状・奉加帳

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

室町時代〜江戸時代

寸法

勧進状 縦29.1cm189.1cm

奉加帳 天地幅32.5cm14.0cm折本

ポイント

・上林の豪族や地侍の名前の記載

・寄進財物や職業名の記載

・中世の村のようすがうかがえる

光明寺 紙本墨書 勧進状.jpg

勧進状

光明寺 紙本墨書 奉加帳.jpg

奉加帳

 大永6年(1526)丹波守護細川氏一族の高国と晴元の宗家争いにからんで、丹波と京都を舞台にはげしい戦いがくりかえされた。高国方についていた上林地域は、翌7年氷上郡黒井城の赤井氏に攻めこまれ、光明寺・善福寺など多くの寺院が焼かれた。これを大永の乱といい、光明寺は二王門を残して堂塔坊舎がことごとく焼亡した。

 天文2年(1533)在地の豪族上林氏が大施主となり、光明寺を再建したが、その時の勧進状および奉加帳がこの文書である。

 勧進状は寺の由緒と本尊千手観音の功徳を説き、乱で焼かれた本堂の再建のため志の多少をとわず奉加するよう呼びかけている。

 奉加帳は52面の折本で、はじめの27面が天文2〜6年の本堂再建の奉加帳、後の25面は天正1719(158991)の奉加帳を貼りついだものである。この余白に江戸時代前期の施入が追加されている。奉加帳には上林氏12名の外、中嶋・野々垣・角山など上林の豪族や出野・足立など和知谷の地侍の名もある。庶民の奉加も多く、布一段 古井 助ばば、など記されている。寄進の財物は、銭が最も多く、ほかに布・米・柱などがある。大工・ぬしや・ほうりなど職業名も見られ、中世の村のようすがうかがわれる。

 

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木造 獅子・狛犬

指定年月日

平成11年6月22日 市指定

時代

南北朝時代

像高

阿形60.5cm、吽形60.5cm

ポイント

・南北朝期の優れた作品

高津八幡宮 木造 狛犬.jpg高津八幡宮 木造 獅子.jpg

狛犬

獅子

 獅子・狛犬は神社の左右に1対ならび、角のないのが獅子で、あるのが狛犬である。姿から阿形と吽形に区別している。創建当時のものと伝えられ、鎌倉から南北朝期の様式を残している。この木造獅子・狛犬は、明応9年(1500)1219日の火災に際して焼け残ったとされ、焦げ痕が残る。平成元年(1989)に保全修理が完成した。

 実に堂々としたもので、丹波・丹後を通じてもっとも優れた狛犬のひとつであろう。

 

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紙本著色 八幡縁起絵

指定年月日

平成11年6月22日 市指定

時代

室町時代(文明17年=1485)

寸法

29cm、長さ1,370cm

ポイント

・中世の絵物語

・他の八幡宮に伝わる縁起絵と共通する内容

高津八幡宮 紙本著色 八幡縁起絵.jpg

 高津八幡宮に伝わるもので、室町時代の文明17(1485)に書かれ、明応9年(1500)願主 上宮寺の寄進と記されているものである。どこへ寄進したかは不明で、願主 上宮寺もわからない。

 高津の八幡宮は、明応9年1219日に火災にあって社殿が悉く焼失したと翌年6月15日付けの勧進状に記されてあり、この縁起絵が全山焼亡した4日後の1223日に高津八幡宮へ寄進されたとは考えられない。

 紙本著色で、巻初は欠落しているが、天地幅29cm、長さ1,370cmの巻物である。詞書(ことばがき)があって、その内容の絵があり、また詞書があり、このくり返しで物語が展開する。

 

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紙本淡彩墨画 大槻辰高像

指定年月日

平成11622日 市指定

時代

江戸時代(寛永13年=1636)

寸法

87.8cm、横30cm

ポイント

・近世の肖像画

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 高津の八幡宮所蔵で、下方に大槻辰高像とその曾孫為高の賛文がある。その賛に、大槻辰高は丹波の国人で、高津に居を構え、八幡宮を崇め、天文年中(153255)病死。その子孫についても記されている。

 安芸守大槻辰高は高津城主として活躍し、その晩年の肖像は武官姿で烏帽子をかぶり、(ホウ)をつけ、腰には刀、左手はにぎり、右手には中啓を持って坐す。

 寛永13(1636)の年紀がある。

 

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紙本墨書 高津御山八幡宮勧進状

指定年月日

平成11年6月22日 市指定

時代

室町時代(文亀元年=1501)

寸法

紙高31.5cm、長さ236cm

ポイント

・神仏混交のようすを示す

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 明応9年(1500)1219日天災にあって社殿悉く焼失したので、時の沙門(僧侶)が貴賤の奉加を請い、小財を集めて大功を遂げたいとしたのがこの勧進状である。

 当時は神仏混交の時代で、神社には社僧がいた。勧進状にも多くの仏教用語を用い、神仏の功徳をたたえて寄付を勧めている。

 日付は火災にあって半年後の文亀元年(1501)6月15日付けであり、この年に再建された。

 

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大般若写経

指定年月日

昭和45年3月20日 市指定

時代

平安時代〜室町時代

ポイント

・平安時代の写経事業

・奥書

東光院 大般若写経A.jpg

東光院 大般若写経@.jpg

 当寺に伝えている大般若経は、平安時代から室町時代にいたる写経の残巻で、奥書のあるものおよそ20余巻が所蔵されている。この中で最古の書写経には「仁平二年八月十一日丹波国何鹿郡矢田郷東中村奉書之 僧興鍳 生年七十一」(472)とある。また「丹波国何鹿郡志万庄法隆寺」(50)などの奥書があり、この写経が志万庄法隆寺(東光院)で行われたことがわかる。

 鎌倉期の写経には「丹州何鹿郡志万庄之内法隆寺常住也」(巻第500)などの墨書があり、補填経には「文永十年(1273)癸酉三月廿二日書了 遠州於岩室寺南谷書写之〓(=己/) 執筆登光房有俊」(巻第400)などの奥書がある。

 丹波地方における平安時代の写経事業を伝えた数少ない遺品であるが、損傷の著しいのが惜しまれる。

 志万庄は養和元年(1181)の院宣にみえる吾雀庄と同じく新熊野社領であって、現在の安場・延・岡・大島の地域にあたる。

 

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経櫃懸子

指定年月日

昭和60年4月1日 市指定

時代

室町時代(明応8年=1499)

寸法

38.5cm 横32.4cm 高さ4.6cm

ポイント

・墨書、漆書文字

東光院 経櫃懸子.jpg

東光院 経櫃懸子(底).jpg

経櫃懸子

経櫃懸子(底)

 この経櫃懸子(カケゴ)は杉板製漆塗の長方形のもので、底は棧板張りである。その棧板の内底に漆書文字、底裏に墨書が記されている。延徳元年〜2年(148990)に起こった位田乱で、岡町の木曽殿神社が焼けたことが記されている。

 

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木造 千手観音立像

指定年月日

昭和45年3月20日 市指定

時代

平安時代

像高

97.5cm

ポイント

・平安後期の繊細な感じの像

・細い体躯

・穏和な表現が特徴

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 綾部地方では12世紀末ころから熊野信仰が盛んになった。この像はそのころ作られたものと思われ、藤原様式の繊細な感じの像である。本躰部は一木造(イチボクヅクリ)で、両肩のところで腕を矧つけてある。冠飾り、髪の毛の生え際のつくり方、耳の曲線のつけ方、頬から顎にかけての顔の輪郭に平安時代後期ころの仏像と共通した特色がみられる。肩から胸部、腰辺から膝にかけては細い体躯につくられ、着衣の襞の表し方も彫りが浅く、穏和な表現が特徴である。

 

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木造 薬師如来坐像

指定年月日

昭和45年3月20日 市指定

時代

平安時代

像高

90.8cm

ポイント

・平安時代後期特有な量感

・膝辺の形式化

宝住寺 木造薬師如来坐像.jpg

 古くから味方町の小さな薬師堂に納められ、付近の人が薬師講をつくって祀っていたものである。現在は宝住寺境内に新しい薬師堂を建て、本尊として祀っている。

 像形は量感にあふれており、藤原時代の特徴をよく備えているが、稚拙なところもあり、地方仏師の作と考えられている。耳の形、頬から顎への肉付け、三道の表し方、胸から腹部への造形にみるべきものがあるが膝辺の彫刻が少し形式化し、薄い造りになっているのは後世に手が加えられたものであろう。

 

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織田信長感状・豊臣秀吉感状

指定年月日

昭和50年9月11日 市指定

時代

安土桃山時代

ポイント

・谷氏の活躍を示す史料

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織田信長感状

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豊臣秀吉感状

 信長の感状は谷衛好が天正4年(1576)石山本願寺攻めのとき、木津・難波表で戦功があって賞されたものである。

 天正7年(1579)谷衛好はこ衛友と共に秀吉の部下として中国攻めに従い、播州三木城攻めで毛利の大軍と戦い、衛好は討死にした。秀吉はこれをあわれみ、子の衛友にこの感状を与え、父の本領6,000石に新規2か所を加増して功を賞した。

 谷氏は美濃国の出身で谷野を称した時もあった。

 天正10(1582)谷衛友は何鹿郡山家に封ぜられ広瀬村甲が峯の西麓に城を築いた。それから谷氏は山家藩主として明治廃藩まで続いた。

 この文書は山家藩士の子孫によって保管されている。

 

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