中世編上巻135p-258p

 

 

 

      第一章 鎌倉時代の丹波『上巻137p-157p

 

    第一節 鎌倉幕府の成立(137p-140p)

 

 平氏の滅亡 平清盛が太政大臣となり政権をとってから、平氏は急速に勢力を伸ばし、一族は多くの高官につき所領をふやした。清盛は、さらに治承三年(一一七九)に、後白河法皇の院政をやめさせて自ら独裁政治を行い、平氏一族の多くを知行国主や国守に任じたため、この年より平氏一門の知行国は増加した。丹波はそれまで藤原成親が知行国主であったが、これに代わって平清邦が国守となった。

 こうした平氏の専横に反発する動きが大きくなり、治承四年、源三位頼政は後白河院の第二皇子高倉宮以仁王を奉じ、平家追討の王の令旨を諸国の源氏にふれまわし、自らも園城寺大衆とともに兵をあげた。しかし、近国の源氏を集めるひまもないうちに平家の軍勢に攻められ、以仁王とともに南都へ落ちていく途中、宇治平等院で頼政は討ち死し、以仁王もまた流れ矢にあたって没した。

 頼政の挙兵は失敗に終わったが、以仁王の令旨を受けた諸国の源氏は競い立ち、木曾義仲は信濃に、源頼朝は関東に兵をあげた。こうした情勢に対して平氏は養和元年(一一八一)一月、丹波をふくむ畿内近国九か国に総管をおいて平宗盛を任じ、翌二月、平盛俊を丹波国諸庄園総下司に任じて、畿内近国をあげて源氏の蜂起に備えた。しかし、この年に平氏一門の柱である清盛は没し、あとをついだ宗盛は、安徳天皇を奉じて西海に逃れた。その後、一の谷・屋島の戦いのあと寿永四年三月、壇の浦合戦に敗れて平氏一門は滅んだ。栄華を誇った平氏もわずか二〇年余りで、平家物語が説くように哀れにもはかなく亡び去った。

 綾部の伝承 平氏の残党追捕はきびしく行われたため、生き残った一門は山奥にのがれてかくれ住んだ。いまでも平家の落人にはじまるという村が全国にあり、民俗学者の調査では六、七〇か所におよぶといわれる。綾部市においても黒谷町は平家落人の伝承をもっている。

 また市内には、高倉宮以仁王にかかわる伝承もある。それによれば、以仁王は流れ矢のために没したといつわり、実は大槻光頼・渡辺俊久ら十二士がひそかに丹波に案内したが矢疵が重くなり、綾部の吉美の庄で没した。治承四年五月九日のこととしている。そこで王を里村に埋め葬ったが、養和元年九月九日、神霊を奥谷の森、すなわちいまの高倉村に移し、高倉明神としてまつったというのである。現在高倉神社は吉美六か村の総社であり、その祭礼は以仁王伝説にのっとった形式をもって行われている。

 鎌倉幕府と守護地頭 平氏滅亡後、源頼朝は関東にあってしだいに武家政権の基礎をかため、鎌倉に幕府を開き、建久三年(一一九二)征夷大将軍に任じられた。頼朝は文治元年(一一八五)、義経・行家がそむいたのを機に、治安維持のためとして諸国に守護地頭を置くことを朝廷にもとめ、その許しを得て国ごとに守護、荘園・郷・保に地頭を置いた。

 守護の任務は大犯三か条といわれ、京都警備のための大番催促、謀反人・殺害人の検断を主な任務とし、あわせて国内の御家人の統制にあたることであった。地頭の職務は荘・郷・保などの年貢の徴収、警察・裁判・下地管理などであり、反別五升の兵糧米をとりたてる権利を認められていた。地頭には荘官である下司や、在地の名主で頼朝と主従関係を結んだ御家人が任じられた。この守護地頭は、鎌倉幕府の政治的・軍事的・経済的な基礎をなすもので、これが置かれる地域が広まるにつれ、幕府の全国統制の力が強くなっていったのである。

 丹波の守護と地頭 丹波は京都の近国であり、朝廷や京都の寺社の荘園の多かったところであるから、関東御家人の本補地頭は少なく、松尾大社領の天田郡雀部庄に梶原景時が入ったくらいで、ほとんどが承久の乱以後の新補地頭であったと思われる。隣国若狭では、建久七年(一一九六)に御家人三三人(東寺百合文書)のうち地頭職は頼朝側近の一名のみであり、但馬は弘安八年(一二八五)に御家人四三名(但馬大田文)のうち地頭職は九名で、他は両国とも下司・公文・名主職や在地領主であり、所領所職の安堵を得て鎌倉殿の御家人となったものである。従ってこれら御家人は、一方では荘園領王と結びついた荘官でもあり、二重の服属関係をもっていたのである。丹波についてはこうした資料はないが、ほぼ同様の形であったと思われる。

 丹波守護は、いままでの研究では承久三年(一二二一)以降について、しかも断片的にしか明らかにされていない。承久三年、当時の守護職は北条義時の弟時房の手にあり、約一〇年後、すなわち寛喜四年(一二三二)ころには時房の子、越後禅門時盛がにぎっていた。さらにくだって嘉元以降においては、六波羅探題南方がこれを兼任するようになっていた。(1)

◎写真【高倉神社】138p

 

    第二節 承久の乱と丹波(140p-146p)

 

 承久の乱 正治元年、鎌倉殿頼朝が病死して子頼家が将軍職をついだ。それより幕府の中の権力争いがたえず、頼家は伊豆の修善寺に流され、そこで暗殺された。三代将軍となった実朝も承久元年(一二一九)鶴ヶ岡八幡宮で殺され、ここに源氏将軍家は断絶してしまった。これにより北条義時は実力者として幕府を指導し、北条氏による執権政治が確立するようになった。

 かねてから朝廷に政権を回復しようと図っていた後鳥羽上皇は、幕府内部の相つぐ政変と実朝の死を好機とし、幕府を武力で倒そうと企て、順徳上皇や院の近臣と謀り、膨大な皇室領荘園の経済力を背景に準備を進めた。承久三年、上皇は鳥羽離宮内の城南寺に流鏑(やぶさめ)馬ぞろいと称して畿内近国の兵を集めたが、『承久記』によれば、召された者の出身国として丹波・丹後・但馬をはじめ一四国の名をあげ、集った兵は一七〇〇人としている。上皇はさっそく義時追討と、諸国の守護・地頭に上皇のもとへ馳せ参じるよう院宣を下した。院宣をうけて北面・西面の武士たちのほか、京都警護の御家人の大半、畿内近国の荘園名主たちや、北条氏に反感をもった御家人たちが京方に参加した。ところが幕府方は、京方の予想に反してただちに大兵力を動員し、北条泰時・時房を大将として京に攻め上った。途中、宇治川の戦いなどもあったが、統制のとれない京方はもろくも敗れ去った。乱後の処置はきびしく、後鳥羽上皇ら三上皇は島流しとなり、天皇は廃立され、皇室領や京方式士の所領所職はとり上げられた。丹波の豪族で京方に加わった芦田八郎朝家は除封され、(赤井氏系図)内藤盛俊は殺されたという。京都を制圧した北条泰時と時房は京都にとどまり、六波羅にあって京都守護や戦後処理にあたったが、これが西国の政務を統べる機関の六波羅探題のもとになった。

 新補地頭 承久の乱のあとの処分によって取り上げられた京方の所領は三千余か所に上ったが、ここには新たに地頭が補任されて、鎌倉幕府の勢力が畿内西国に大きく伸びるようになった。新補地頭として丹波に入ったといわれるのは次の通りである。

   大山庄 東寺領   中沢小二郎基政

   宮田庄 近衛領   公文職石川六郎

   和知庄 仁和寺領  片山広忠

   私市庄 上賀茂社領 公文職清久小次郎胤行

   由良庄 同     十郎経成

 和知庄は観応三年(一三五二)十一月貞親譲状に、当地頭職は片山平九郎右馬允が承久勲功によって給わったと記されている。私市庄は建武四年七月足利直義下文に、

                        日拝領

「□市荘公文職外 清久小次郎胤行貞応二年六月六□□□地也」

とある。これは、私市庄公文が承久の乱に際し京方についたためその所帯の公文職を没収され、貞応二年(一二二三)六月、胤久が当庄公文職に補せられたのであろう。(2)

 『丹波志』には武蔵国大里久下保の久下氏が氷上郡栗作郷に、相模の住人酒井政親が多紀郡酒井庄に、それぞれ補任されたと記している。また天田郡川口荘へは駿河国より牧甚左衛門が、氷上郡佐治荘には武蔵国より足立遠政が入り、黒井の豪族赤井氏や丹波奥郡で栄えた荻野氏、信州より入った芦田氏(赤井系図)などが地頭となった。

 上原氏 何鹿郡の地頭では物部に入った上原氏だけが知られている。上原氏は慶長二年(一五九七)の奥書のある由緒書によると、

  「右大将頼朝公建久四年富士山御狩之時日本国大名小名思々之装束ニ御供なされ候則上原右衛門丞景正並舎弟右近之丞政成殿御供也云々」

とあり、そのあと巻狩のときに手柄をたてたため、何鹿郡六万石を与えられた由を記している。「物部古城記」には、「建久四年信州上田城主上原右衛門丞景正頼朝に従い丹波何鹿部を賜い物部に居城す」とある。いずれも後世に伝承を記したものと思われるが、信州から地頭として入部したことは確かであろう。上原氏が由緒書通り建久四年(一一九三)に入ったとすれば本補地頭であるが、史実としては明らかにできない。この由緒書の文言には後世の作為と考えられるところもあるので、上原氏はやはり承久以後に何鹿郡に入ったものではなかろうか。

 上原氏は信州国造流、諏訪下社の神官の出で、諏訪郡上原村におり上原姓を名乗った土豪、いわゆる諏訪神党の一族であると思われる。(姓氏家系大辞典)由緒書によれば、上原右衛門丞景正は一族を引きつれて物部に来たところ、村境「ふとがはな」で地侍たちが刃をそろえて妨げようとしたので、使者をもって、「怒を止め我に奉公すれば扶持など与うべし」と申し渡したところ家来になることとなり、物部へ入ることができたとしている。在地の武士たちと、新しく入る地頭との関係をしめすものとして注目されるところである。はじめ下市の高屋山に城を築き、守護神の諏訪明神を須波伎の仙人隠れの山麓に勧請した。その後応仁文明のころであろうか、居城を現在の荒山に移し物部城と称し、諏訪明神もその麓に遷座したと伝えている。(社伝)そのため城下に人家が集まって城下町らしい集落ができ、上市・下市の名が生まれたのであろう。こうして上原氏は鎌倉時代から戦国時代の終わりへかけて約三五〇年の間、何鹿郡西部において地頭として勢力をもったのである。

 何鹿郡の地頭 その他の地域で地頭がどうであったかは、丹波の大田文が残されていないのでわからないが、但馬の大田文でみると八鹿地方だけでも二〇人の地頭がいるから、それより推して何鹿郡にも多くの地頭がいたものと思われる。名称も地頭というだけでなく、下司・公文・案主などの荘官を兼ねていたと思われる。福知山市の「観音寺文書」には文永七年(一二七〇)の寄進状があり、「預所兼地頭案主左衛門少尉中原」の名がある。預所は荘園領主の代理者であり、それが地頭を兼ねていたことはこのころの荘園支配の実態をしめすものとして重要である。

 それらから考えると、館町赤国神社所蔵「文の鳥」の背面銘にある正和三年(一三一四)下司源光高、「安国寺文書」文保元年(一三一七)の下司源資平、鎌倉末期のものと思われる東光院写経の奥書に出てくる源賢景なども荘官地頭であろう。また西方町藤波神社の壁板に、正安三年(一三〇一)「大勧進正地頭河村之後家尼御前」と記されており、河村という地頭のいたことが知られる。

 地頭の館 地頭は農村にあってしだいに権限と勢力を拡大し、公領荘園の年貢や土地を押領するなどして在地の支配者となっていった。そうして館とよばれる広い屋敷をかまえ、家の子郎党らを従えて屋敷のまわりに住まわせ、門田・佃などとよばれる直営地をもうけた。館は主人一家の住まいする城詰などといわれる内部に母屋・馬屋・納屋などを建て、そのまわりを土塁(土居)で囲み、内外に作人小屋を建て並べ、外側には堀をめぐらして防備をかためていた。従って土居ノ内・堀ノ内・館ノ内などの語は鎌倉期の武家屋敷を指しており、地頭の館を意味するものと解することができる。館といっても地頭の支配する領域の広さ、すなわち経済力によって屋敷の広さもまちまちであったが、館の所在を思わせる地名がいくつか残っている。いま、市内の小字名を調べてみると、青野町から川糸町にかけて堀ノ内・館ノ後・馬場、岡町に館ノ内・弓場、星原町に土井ノ内、上八田町に仲土居・館・館ノ前、中筋町に土居付・土井ノ上・タチ、栗町に土居ノ内・館町など地頭屋敷を思わせる地名が残っている。とくに具体的に武家屋敷が存在していたと思われるのは井倉町である。地積図でみると小字名に館・堀・土居下・西門・東・仲屋敷・門ノ前、少し離れて馬場などがある。井倉町の小字館は、心田院の西側に一段高く矩形の畑地となっているが、もとは心田院の境内まで伸びていたというから一五〇メートル平方もあったであろうか。地積図で館遺跡を復元してみると、館をめぐっていた堀の水は、四ツ尾山より流れ落ちる谷川を八幡宮下の宮代町へ引いて堀に注いだものであろう。その付近に樋ノ元・溝淵・南大橋などの小字名が残っている。また館の西の方向に西門があり、館につづくところに仲屋敷があり、その南は門の前となっている。館の北側には土居ノ下があり、西方に小庄司があって、岡小丈子、延小丈子とつづいている。これは荘官の職田で、庄司を兼ねていた地頭の所有田であったのではなかろうか。こう考えると、姓名は明らかにできないがここに地頭の館があったと推定される。

◎写真【物部 諏訪神社】142p

◎写真【中原朝臣寄進状(観音寺文書)143p

◎挿図【井倉町地積図】145p

 

    第三節 何鹿郡の荘園(146p-157p)

 

 荘園の動き 平安末期の一二世紀になると荘園が急激にふえ、また国衙領(公領)もその性格や内容が荘園に似たものになっていったこと、そして荘園の経営には在地勢力である荘官があたったことは古代編で述べたところである。

 鎌倉幕府が成立すると、それら在地勢力の多くは鎌倉御家人となり、本領安堵という形で従来からもっていた権利を認められ、地頭がおかれるようになると、荘官であると同時に地頭になった。そのため荘園の現地、すなわち下地(したじ)は、領家の管理と鎌倉御家人の管理の二重支配をうけることになり、御家人である地頭と荘園領家との争いは絶えずくりかえして起こった。これが南北朝の争乱の中でしだいに地頭の力が強くなり、半済(はんぜい)や下地中分(したじちゅうぶん)などが行われ、在地の一円支配の方向へ進んでいった。

 何鹿郡には、京都に本所領家をもった荘園が一二世紀末ごろからあらわれてくる。これら荘園に関する資料は乏しいが、南北朝のころに寺領の寄進を受けた安国寺の文書には、荘園の寄進の形やその変遷とともに荘内で成長する武士の動き、また郷村がしだいに形成されていくようすを見ることができる。

 つぎに何鹿郡内の荘園について述べてみたい。

 

 1 栗村荘

 栗村荘は『倭名抄』にいう栗村郷を中心にした地域で東西に分かれていた。現在の栗・豊里・館・大畠などが東栗村荘、石原・小貝・私市の東部が西栗村荘であった。この地域は由良川と支流の犀川が合流する地帯で、周囲に低い丘陵地をめぐらした広い米作地として早くから開発されていた。

 文治二年(一一八六)三月二日『吾妻鏡』の記事によると栗村荘は崇徳院の領地で、領家は参議藤原光能である。「在地の武士が兵糧米の徴収にことよせて、相伝の家領を押領しようと企てているので早く停止の命令を出してほしい」と未亡人比丘尼阿光から鎌倉幕府に訴え出たところ頼朝は、「武士の狼藉を停止せしめて元の如く崇徳院領となし領家阿光の支配にしたがわせるよう」下文(くだしふみ)を出している。

 これは頼朝が国々に守護地頭を置いた翌年のことで、荘園の下司・国衙の在庁官人などの在地武士や地頭などが、郷荘の年貢を私有したり荘園を押領することなどがしばしば行われたその一例といってよいであろう。栗村東西荘が崇徳院領であっただけに、朝廷と幕府の関係をしめすよい史料であり、頼朝は朝廷方の申し出をそのまま受け入れ武士の狼藉を押えている。

 その後栗村荘に関する消息は絶えてしまうが、『亀山院御凶事記』嘉元三年(一三〇五)の条に「丹波国栗村東西云々」と出ているから、その時代には亀山院領であったらしい。また館町赤国神社の社宝「文ノ鳥」に「正和三年(一三一四)甲寅九月八日下司源光高」という銘があることや、同町楞厳寺の貞和五年(一三四九)三月十一日の「敷地紛失状」に惣追捕使源高康のほか、公文・下司等が名を連ねていることによって、南北朝時代まで栗村荘が存続していたことがわかる。室町時代になると、在地の荘官名主から出た有力武士が荘園を押領して在地領主となっていると思われ、応永三十二年(一四二五)の「栗村荘栗村道安譲状」(丹波史年表)がある。こうして栗村荘からは戦国時代の土豪として栗城の大槻氏、大畠城の大槻氏、小貝城の川北氏などが成長していったのである。

 

 2 私市荘

 私市荘は『倭名抄』の私部郷が荘となったもので、福知山市の報恩寺・印内・私市と綾部市私市町の旧佐賀村の大部分にあたる。ここは由良川と相長(あいおさ)川の合流するところの小平地で、西は庵我郷、南は川を隔てて京都松尾社領の雀部荘がある。私市荘は賀茂別雷社領であって、その立荘の時期は明らかでないが、寿永三年(一一八四)四月二十四日源頼朝が諸国に令して、「賀茂社四十二所神領は院庁の御下文に任せて武士の狼藉を停め神事の用途に備うべき」由を沙汰(賀茂注進雑記・吾妻鏡)した中に私市荘がある。

 文治三年(一一八七)十月五白、右大臣家(藤原実定)政所の下文によると、賀茂社権祢宜資保が子の能久に私市荘と美作国河内荘を譲り知行せしめ、賀茂別宮(四条坊門油小路)に寄進するよう指示した(賀茂別雷神社文書)ことがわかる。しかし賀茂能久は承久の乱に後鳥羽上皇の召に応じて京方に属し、宇治を守って幕府軍と戦い敗れ、六波羅に捕えられて九州の太宰府に流された。その結果、能久の知行地は取り上げられ、承久四年(一二二二)三月、私市荘は貴船神社の祝(はふり)賀茂久継に与えられた。(賀茂注進雑記)

 承久の乱後、京方の没収した土地に対して多くの関東御家人の地頭を新補したが、以前から荘務権をめぐって争っていた地頭と領家側の紛争が激しくなり、畿内近国の社寺領では幕府へ提訴することが多かった。私市荘においても、清久胤行が貞応二年(一二二三)六月公文職に新補されたが、地頭のごとくに荘務に介入するので、寛喜四年(一二三二)四月十七日、賀茂社の訴えにより執権北条泰時連署北条時房の名によって、「私市荘の荘務は嘉禄三年(一二二七)の下知状の如く地頭と公文の荘務を分け、公文の定められた職権を越えてはならない。」と下知している。その他の記録では「茂木文書」の建武四年(一三三七)七月三日、文和二年(一三五三)六月十日のものに私市荘の名が見える。

 戦国時代になると、この荘から報恩寺城主片岡近江守、私市城主大志万宮内大輔などが自立して在地領主になるが、いずれもこの荘の地頭か荘官であって、荘園を支配していたものであろう。

 

 3 吉美荘

 『倭名抄』の吉美郷にあたる。一三世紀の末に書かれた『西大寺田園目録』に丹波国吉美荘が出ている。また応永六年(一三九九)八月西大寺領(丹波史年表)とあって、鎌倉時代から室町時代にかけて西大寺の荘園であったことがわかる。現在荘園記録としての資料を欠くので詳細を知ることはできないが、「丹波史年表」によると、文応元年(一二六〇)四月一日、「吉美荘に強盗あり 右近将監荻野朝光に執達す」と載せている。おそらく在地の武士層が狼藉をしたので、近衛府の将監であった荻野朝光に取り調べを命じたものであろう。それが四年後の文永元年(一二六四)二月二十二日、「幕府荻野朝光の訴によりて丹波吉美荘を処分せしむ」(総合地方史年表・荻野文書)とあるから、幕府の命によってなんらかの処置がとられたものであろう。吉美荘も他の荘園と同じく武士の押妨がくり返され、やがて在地領主の支配へと移っていったものと思われる。

 

 4 高津荘

 『倭名抄』の高津郷にあたり、現在の綾部市高津町と福知山市興・観音寺の地域であるが、中世では前者を上高津、後者を下高津と呼んだ。

 下高津にある「観音寺文書」によると、下高津は平安時代、天田郡六人部荘の新庄として八条院を本所とし、領家平頼盛の所領であった。頼盛の母は池禅尼で、平治の乱で敗れた義朝が殺されたとき、子の頼朝も共に殺されるところを救われたのは禅尼の御恩であるとして、平氏滅亡によって所領を取り上げたときも、頼盛の荘園だけは没収しなかった。(吾妻鏡)建仁二年(一二〇二)三月、高津村観音寺別当職に平高盛が補任され、永仁六年(一二九八)二月には左兵衛尉平盛氏が荘園の行枝名田畠を観音寺に寄進(観音寺文書)しているが、これらはおそらく頼盛系の平氏一門であろう。

 前に述べたように文永七年の観音寺に対する寄進状に出てくる「左衛門少尉中原朝臣」は預所兼地頭であって、在地領主となっていたものと思われ、またこのころより荘園領主も交代している。南北朝時代の応安元年(一三六八)六月十二日付の「観音寺寺田安堵状」や、同年七月二十八日の「寺田寄進状」をみると、いずれも天竜寺の春屋妙葩の袖判があって「天竜寺領丹波国六人部新庄高津村」(観音寺文書)と明記しているから、この時代には下高津は天竜寺領になっていたことが知られる。

 戦国時代になると、大槻氏が在地領主として高津城に拠り高津荘を支配した。文明十一年(一四七九)および十二年に観音寺へ寺田を寄進した大槻豊前入道盛雅や、天正二年(一五七四)の寄進状にみえる大槻監物丞吉高(観音寺文書)の外、このころに活躍した多くの高津城主の名が知られている。上高津には石清水八幡宮から分霊をまつったと伝える高津八幡宮があるが、かつて石清水八幡宮の荘園であった時代があったものと思われ、「上高津荘永禄八年(一五六五)石清水八幡宮領五石五貫文」(丹波史年表)の記事がある。在地領主がこのころ石清水八幡宮に貢納を続けていたものであろう。

 

 5 吾雀(あすすぎの)

 『倭名抄』の吾雀郷の荘となったもので旧志賀郷村の地域である。荘名は養和元年(一一八一)院庁下文に見え、志万荘とともに新熊野社領二十八所の一となっている。熊野権現を京都に勧請したのは永暦年間(一一六〇―一)のことといわれ、治承二年(一一七八)には熊野の修験者たちが山陰道にあらわれているから、吾雀荘が新熊野領となったのはこのころのことと思われる。別所町に熊野神社がまつられ、熊野十二所権現像が伝えられるのは、おそらくこの荘園の守護神として勧請されたものであろう。

 『天台座主記』、文永八年(一二七一)六月廿三日と文永十年五月二日の条に、講堂造営のため丹波国吾雀荘の年貢をあてられた記事がある。新熊野社は天台座主の管理するところであったので、一時その年貢が叡山の費用にあてられたことではなかろうか。京都の「妙法院文書」によれば、康永三年(一三四四)のころには荘内は分かれて三村となり、中村は新熊野社用にあて、西方・向田の二村は妙法院門跡の所領となった。文明五年(一四七三)には、西方村領家半分、すなわち領家の得る年貢の半分は京都の北野神社のものとなった。この荘から志賀氏が在地土豪として成長し、戦国期に活躍するのである。

 

 6 志万荘

 『倭名抄』志麻郷の地域にあたり、養和元年(一一八一)の院宣にみえるように吾雀荘と同じく新熊野神社領であった。現在上延町東光院にある大般若写経奥書に、「何鹿郡志方庄法隆寺」や、「文明六年(一四七四)六月上志方庄宝隆寺」などと志方荘の存在を立証している。その他には荘園関係の資料がないので歴史的変遷を明らかにすることができない。ただ大般若写経の奥書に、志方荘の荘宮で地頭であったと推定される結縁檀那源賢景などの名があるにすぎない。東光院は真言寺院で、はじめ寺号を法隆寺と称し、室町時代以後は宝隆寺と変えたと伝えている。往時は志方荘唯一の寺院として七堂伽藍を有する大寺であったといい、現に塔址・仁王門などが残っていて志万荘とのかかわりあいを思わせている。

 なお志万荘について、承平年中(九三一 九三七)梅津六郎が「大志麻庄」を賜わった(三郡人物誌)という伝承がある。大島町には、梅津氏の子孫で中世猿楽の大家となった梅若太夫の屋敷跡や、その先祖をまつる梅ノ森明神跡が伝承されているから、梅津氏が一時荘園領主であったことも考えられる。

 

 7 上林荘

 上林荘は『倭名抄』賀美郷・拝師郷にあたる地域で、明治以後は三上林といわれた地方である。上林荘については散発的な記録が発見されているだけで、その全体のようすを知る資料に欠けている。

 『神護寺文書』に寛喜元年(一二二九)四月十日、「鎌倉殿の仰によって上林荘に守護所使の入部を停止せしむべし」という鎌倉幕府の下知状に見えるのが初出であり、鎌倉時代には神護寺領になっていた。神霊寺は京都の大寺であるから、上林荘は守護所使不入の地になっていたのであろう。

 次に鎌倉から南北朝へかけての時代に書かれた義堂周信の『空華日工(くうげにつく)集』(一三二五 一三八八)に「丹州上林荘」の名が載せられ、下って文明九年(一四七七)一月、「上林庄禁裏御料となり米炭漆を貢ぐ」(丹波史年表)「安国寺文書」寛正二年(一四六一)の広戸九郎左衛門尉の下知状には、「上林上下村 相国寺領 同 仁木殿御領」とあって、上林地域が相国寺領と仁木氏領となっていたものと思われる。『伺事記録』天文八年(一五三九)五月廿七日の条に、「相国寺領丹波国何鹿郡上林内谷忠番事 為寺家代官職之儀 被申合仁木右馬頭之段云々」とあり、天文のころにも、相国寺・仁木氏の荘園となっていたことがわかる。

 戦国時代に入ると上林荘は複雑に分割され、在地土豪たちによって私領化されていったようである。それらの土豪は、尊氏に従って上林荘の地頭となった上林秀家の末裔や、天文二年(一五三三)光明寺を再建した上羽丹波守、記録としての資料はないが上林荘の一部を領有していたらしい光明寺、口上林地域の渡辺氏などであった。なお享禄四年(一五三一)には、郡境を越えて北桑田郡の川勝光照が侵入し上林の一部を領有したことがあり、永禄年間(一五六〇ころ)には氷上郡黒井城主の赤井時家が上林の一部を支配していたようである。

 

 8 小幡荘

 小幡郷が荘となったものである。『玉葉』の承安五年(一一七五)五月十二日の条に、女院より申しつけられた宣旨の請文の註に、「丹波国小幡荘」のことがあるが、これは小幡郷に国司によって新たに荘が設けられ、その中に女院領の位田が包含されていたので、他所に改めて位田を設定したようすが記されている。下って南北朝のころ『師守記』に、康永三年(一三四四)正月廿七日、「丹波国小幡荘内大佃事」として荘園に関する紛糾について、御前評定を行う廻状を発していることが記されている。

 

 9 漢部御厨

 『神鳳抄』に丹波国漢部御厨のことが見える。桑田郡にも漢部郷があってどちらともきめにくいが、『大日本地名辞書』や『鎌倉遺文』『荘園志料』は何鹿部漢部郷をあてているので、これに従いたい。『神鳳抄』は漢部御厨を内宮領とし、上分十石と記しており、『神領記』によると、漢部御厨三貫往古五貫を上納したとしている。また建久六年(一一九五)九月八日の太神宮神主注進状によると、漢部御厨は仁平年中(一一五一ごろ)に太神宮に寄進されたもので、その後国衙の押妨をとめる宣旨が元暦元年(一一八四)に出され、さらに建久六年にも訴え出ていることがわかる。

 こうして漢部郷は御厨となったので、そのまま郷名が長く残ったものと思われ、室町時代には上杉氏の所領として、八田郷と漢部郷の名が出ている。

 

 10 上杉荘と八田郷

 上杉荘は上杉町を中心とした地域である。上杉系図によれば、建長四年(一二五二)藤原鎌足一九代の後裔勧修寺重房が、将軍として迎えられる宗尊親王につき添って関東に下り、その功により上杉荘を賜わったので、これより上杉姓を名のったという。上杉氏は関東に下向してから武士となり鎌倉御家人となった。南北朝ころから戦国時代へかけては、足利氏と結んで関東管領ともなり、関東・越後で大きく活躍するようになった。所領の上杉には居館をもっており、弾正朝定のいたという弾正屋敷跡があり、その東北の山上には上杉氏の居城と思われる城跡も残っている。

 上杉の荘名はその後文書にあらわれないが、上杉荘は八田郷に含まれてしまい、その土地は引きつづき上杉氏に領有されていたものと思われ、南北朝ころから後の「安国寺文書」「上杉家文書」に、

所領として八田郷の名はたびたびあらわれる。

 文保元年(一三一七)高槻保内守清名田畠を比丘尼心会から譲り受けた源資平は、建武五年(一三三八)この守清名主職を光福寺(安国寺)に譲り渡している。高槻保は後の高槻村である。

 比丘尼心会の譲状は、

   「丹波国高槻保内守清名田畠は亡父より譲られた土地であるが 源資平に永代譲り渡す」

 というもので、守清名は比丘尼心会の亡父が領知していたのだから、古くから名が成立していたことがわかる。源資平は下司で、上杉荘の荘官であったものと思われる。

 「安国寺文書」には、八田郷と八田郷上村に分けて記され、両者は別の地域である。八田郷については八田郷内能登房跡を光福寺に寄進する文書と、八田郷次郎丸内田二反並家敷畠二反を妙元房にあてがうとの文書がある。八田郷上村には、貞行名・兼里名・貞遠名がある。この八田郷上村は現在の上八田・七百石の地域を指すものであることは、岩王寺にある「寄進田数目録」によって明らかである。応永ころ(一五世紀はじめ)より以降は荘園と郷・保とが混在し、いずれも武士の所領となり、八田郷は仁木氏・上杉氏と安国寺・岩王寺などに分割領知されていたものと考えられる。

 「上杉家文書」応永十年(一四〇三)の将軍義満御教書には、「丹波国漢部郷除原村を上杉長基に充行う」とあり、これを譲り受けた上杉憲実は、宝徳年間(一四五〇ころ)漢部村から年々百貫文の陪堂料を受けたとしている。

  (1) 佐藤進一「鎌倉幕府守護制度の研究」

  (2) 田中 稔「承久京方武士の一考察」史学雑誌第六五―四

◎写真【楞厳寺 敷地紛失状】147p

◎写真【高盛補任状(観音寺文書)150p

◎写真【東光院】152p

◎写真【比丘尼心会譲状(安国寺文書)156p

 

 

 

      第二章 足利氏の登場と安国寺『上巻158p-178p

 

    第一節 鎌倉幕府の滅亡(158p-161p)

 

 元弘の乱 承久の乱から後、鎌倉幕府は京都の公家勢力をおさえ、天皇の即位についてはすべて幕府の承認を要するとしたことをはじめ、京都の政治に大きな発言力をもつようになった。一方、北条氏による執権政治も時頼のころよりしだいに北条氏嫡流、すなわち得宗(とくそう)による専制を強めていった。さらに文永・弘安の両度にわたる蒙古軍の襲来は御家人たちの大きな負担となり、加えて商工業の発達にともなう経済の変化は、御家人たちをいっそう窮乏させた。それに反し北条氏は、元寇を機に諸国守護職を北条氏へ集めようとはかり、そのため得宗専制は一そう強められたが、御家人の不満はつのり、人心は幕府から離れていった。

 後鳥羽上皇の遺志をついで討幕の機をねらっていた後醍醐天皇は、反北条や近国の武士、叡山南都の衆徒の勢力を募って元弘三年(一三三三)討幕の兵をあげた。けれども謀りごとは早くもれ、天皇は笠置に逃れたがまもなく関東の軍勢のために笠置は陥ち、天皇は捕えられて隠岐に流された。しかしその後も幕府に反抗する動きは西国においてしだいに勢力を増してきた。こうした勢力を抑えるために幕府から派遣された足利高氏は、途中で天皇方についてしまった。

 高氏の挙兵 もともと足利氏は清和源氏の嫡流であり、下野足利荘を本拠とする大豪族である。北条氏はこの足利氏と度重ねて姻戚関係を結んでおり、高氏の妻登子は北条一門の赤橋氏である。

 足利氏には奇妙な伝えがあった。それはこの家の先祖にあたる源義家の置文(遺言)があり、「七代の孫に生れ替って天下をとるべし」と書かれており、七代の孫家時は先祖の遺言を果たせなかったというので、「わが命をつめて三代のうちに天下をとらしめたまえ」と八幡宮に祈って切腹したのである。家時の三代目にあたるのが高氏である。こういうこともあってか、高氏は平家である北条高時の命のままに働くことを不満としていた。

 高氏は弟直義や一族の吉良・上杉・仁木・細川・今川・荒河の兵を率いて京都に向かったが、時勢のむかうところを察し天皇方につこうとして、ひそかに部下の細川和氏・上杉重能を船上山にある後醍醐天皇のもとへ送って北条氏討伐の綸旨を受けた。この綸旨を秘して京都へ入りいったん六波羅の陣に加わったが、元弘三年四月丹波へ進み、桑田郡篠村八幡宮に兵を止めた。そこで源氏の白旗を社前にかかげ、源氏再興の願文を神前にささげ天皇方につくことを宣言した。そうして近国に檄をとばして兵を募るとともに、神社仏閣に朝敵退治の祈祷をさせた。

 丹波土豪の動き 何鹿郡には高氏の母方上杉氏の荘園があったから、早くから高氏方の動きがあったと見え、四月二十八日には、上杉兵庫入道憲房が八田郷におもむき、岩王寺などに戦勝祈願を命じている。(岩王寺文書)

 高氏の挙兵に応じて丹波から馳せ参じた土豪の中に久下弥三郎時重というものがあった。軍兵二五〇騎、笠じるしに「一番」と書いて一番に駆けつけたという。これは時重の先祖武蔵の住人久下二郎重光が、頼朝の平氏討伐の挙兵に一番に駆けつけて、頼朝より「一番」の家紋を授かったという故事によったものである。そのほか、長沢・志宇知(しうち)・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部など丹波の土豪たちが加わっている。

 一方後醍醐天皇の挙兵に応じ、早くから氷上郡の高山寺城に立てこもっていた足立・荻野・小島・和田・位田・本庄・平庄などの面々は、「今更人の風下に立つべきにあらずと丹波より若狭へ打って出でそれより桑田を経て高雄へかかる由」(太平記)とあるから、高山寺勢は別隊として氷上郡から天田郡へ入り、何鹿郡の上林谷を経て若狭へ打ってでたものであろう。

 鎌倉幕府の滅亡 元弘三年五月七日、篠村八幡宮の陣所を出発した高氏は二万三千人といわれる大軍を率いて京都に入り、名和長年・赤松則村・千種忠顕とともに六波羅を攻め、二時間ほどの激闘の末、探題北条仲時・益時を破って六波羅をおとしいれた。同二十一日、鎌倉もまた新田義貞に攻められて落ち、ついに鎌倉幕府は滅亡した。第一の功労者とたたえられた高氏は、武蔵など三か国の守護職を与えられ、天皇の諱の一字をもらって尊氏と名を改めた。

◎挿図〔系図〕159p

◎写真【岩王寺】160p

 

    第二節 南北朝の戦乱と丹波(161p-166p)

 

 建武の新政と南北朝の動乱 北条氏の滅亡によって、後醍醐天皇による建武の新政がはじまった。中央には記録所・雑訴決断所・武者所などの機関をおき、地方には国司と守護を併置した。丹波には千種忠顕が国司に、碓井守景が守護代に任じられた。しかし建武の政権は公家と武家の混合の組織であり、成立とともに多くの矛盾を生じ公武の対立はさけられなかった。その具体的なあらわれが足利尊氏と護良親王の対立である。護良親王は征夷大将軍となって入京するが、すでに京都を押えていた尊氏との間に戦いがおこるとの風聞がしきりであった。

 建武元年(一三三四)十月、護良親王は天皇への謀反ありとして捕えられ鎌倉へ送られた。尊氏は自ら幕府を開く下心があったから、関東で反乱した北条時行を討つため関東に下り、建武二年十月、鎌倉を根拠にして天皇に反旗をひるがえした。

 そこで尊氏追討の命をうけて新田義貞らが鎌倉に向かったが、十二月、箱根竹ノ下の戦いで敗れ、尊氏・直義の軍はこれを追撃して翌建武三年一月京都に入った。丹波では久下時重・波々伯部次郎左衛門尉為光・中沢三郎入道等が尊氏に応じ、丹波守護代碓井盛景を襲って敗走させた。そのあと仁木頼章が守護代(のちに守護)となり、佐野城(氷上郡沼貫)をよりどころとして丹波を押えようとした。

 しかしいったん敗れた新田義貞は、楠木正成や北畠顕家の援軍を得て京都を回覆し、一月二十九日、尊氏は丹波に逃れて多紀郡曾地(城東町)の内藤道勝の館に身をよせた。そうして尊氏は丹波の土豪たちに再挙に備えるよう指令を発し、内藤道勝・季継父子や丹波の土豪たちをつれて多紀・有馬の境三草山を越え、印南野から兵庫へ走り、二月八日、海路九州へ落ちていった。

 九州落ちの途中、尊氏は持明院統の光厳上皇の院宣を得て九州に乗りこみ、九州の宗像・小貮・大友等豪族の協力によってたちまち態勢を立て直し、建武三年三月二日、多々良浜の戦いで菊池武敏の大軍を破った。この戦いには仁木義長・上杉重能などのほか、丹波から従ってきた赤井基家・家清兄弟などよく戦ったが、中でも荻野重定・弟重国は一族二〇〇余人とともに討ち死したという。(赤井系図)

 多々良浜の戦後九州を制圧した尊氏は、『太平記』によると、自らは海路を兵船七五〇〇余艘をこぎならべ、直義は二〇万騎を率いて水陸差し分けて東上したという。五月二十五日、有名な湊川の合戦があり、楠木正成は討ち死、新田義貞は敗走し尊氏は再び入京した。この間、丹波にあった仁木頼章は、久下・長沢・荻野・波々伯部などの土豪を率いて氷上郡の白旗城に立てこもって九州の尊氏に応じた。しかし丹波の中にも江田行義や、足立・本庄などの後醍醐天皇方の土豪の抵抗もあったが大勢には大きな影響はなく、丹波は尊氏の支配勢力下にあったようである。

 尊氏が京都に入ったので後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を立て、京都には光明天皇が擁立されて北朝となった。暦応元年(一三三八)、尊氏は足利家累代の悲願であった征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府が成立した。

 室町幕府と丹波守護・守護代 尊氏は京都二条高倉に幕府を開いたが、南北朝の抗争はくりかえされ、そのうえ尊氏・直義による二頭政治の矛盾や、将軍家の内輪争い、守護大名、有力武士の間の勢力争いが加わって戦乱が絶えなかった。しかし南朝方はしだいに勢力が弱まり、三代将軍義満の時に南北朝は合一して、六〇年にわたった内乱も一応治まり、室町幕府の基礎がかたまった。

 室町幕府の組織は、中央に管領の下に侍所・問注所・評定衆・引付衆などを置き、関東には鎌倉府(関東管領)を、奥州・九州には探題を置いた。これらの組織の主な役職には足利一門や譜代の重臣をあて、管領には一族の細川・斯波・畠山氏、侍所の長管(所司)には山名・赤松・一色・京極氏からそれぞれ選任することにした。関東管領には義詮の弟基氏をあて、執事には尊氏の母方の上杉氏を任じてともに世襲とした。のちに管領を公方(くぼう)、執事を管領と称し、京都に匹敵するほどの勢力をもつようになった。

 これらの幕府の要人は守護職にあり、中には数か国の守護職をかねて強大な守護大名となるものもあり、将軍はこれら守護大名の勢力の均衡の上に、その地位を保つというようになった。地方において世襲化した守護は、地頭を家臣にくみ入れてその勢力を増大し、地頭は荘園領主と争って下地中分や年貢の地頭請などにより、在地の支配権を強めるようになった。こうした地頭や名主など在地領主は国人とよばれ、南北朝から戦国の動乱の中で勢力を伸ばすため離合しながら相戦い、興亡をくりかえした。

 丹波は京都の近国であり、その地理的重要性のため有力な守護が任じられていた。室町時代の守護及び守護代は次表の通りである。

 

   丹波の守護

 仁木頼章 義勝の子 周防守 伊賀守 兵部大輔   暦応年間(一三三八 一三四一)康永二年(一三四三)観応元年(一三五〇)

                          文和元年(一三五二)

 仁木義尹 頼章の子 兵部大輔           延文三年(一三五八)貞治元年(一三六二)貞治二年(一三六三)

 山名時氏 政氏の子 伊豆守 弾正少弼 左京大夫  康永二年(一三四三)貞冶三年(一三六四)

 山名氏清 時氏の子 陸奥守 民部大輔       応安三年(一三七〇)

 細川頼元 頼之の養子(頼春の子) 右京大夫 管領 明徳三年(一三九二)応永三年(一三九六)

 細川満元 頼元の子 右京大夫 管領        応永五年(一三九八)応永十九年(一四一二)

 細川持元 満元の子 右京大夫 管領        永享元年(一四二九)

 細川持之 満元の子 右京大夫 管領        永享三年(一四三一)永享四年(一四三二)

 細川勝元 持之の子 右京大夫 武蔵守 管領    応仁二年(一四六八)

 細川政元 勝元の子 右京大夫 武蔵守 管領    文明十二年(一四八〇)文明十四年(一四八二)

 細川澄之 政元養子(九兵尚経の子)        永正四年(一五〇七)

 細川澄元 政元養子(義春の子)右京大夫      永正四年(一五〇七)

 細川高国 政元養子(政春の子)武蔵守 民部少輔  永正八年(一五一一)

  註 右の年は守護として文献に記された年を記したものである

 

    守護代

 碓井守景   建武元年(一三三四)   内藤元貞   長禄四年(一四六〇)

 仁木頼章   建武二年(一三三五)   内藤繁則   応仁元年(一四六七)

 荻野朝忠   暦応四年(一三四一)   内藤貞徳   応仁二年(一四六八)

 久下頼直   観応元年(一三五〇)   内藤元貞   文明八年(一四七六)

 山名時氏   観応二年(一三五一)   上原賢家   文明十八年(一四八六)

 久下頼直   延文二年(一三五七)   上原豊前守  廷徳元年(一四八九)

 小林左近将監 応安二年(一三六九)   内藤元貞   永享三年(一四三一)

 小笠原正元  応永五年(一三九八)   内藤某    永享十年(一四三八)

 香西某    永亨三年(一四三一)   内藤元貞   享徳元年(一四五二)

 上原元秀   明応二年(一四九三)   内藤国貞   永正十六年(一五一九)

 内藤貞正   永正二年(一五〇五)   内藤貞正   大永五年(一五二五)

 香西元長   永正四年(一五〇七)   内藤国貞   大永六年(一五二六)

  註 「綜合地方史年表」「丹波史年表」「地方中世文書」より作製 守護代として初見の年を記した

 

    第三節 足利氏と安国寺(166p-178p)

 

 上杉氏と光福寺 前に述べたように上杉荘は建長四年(一二五二)より上杉氏の所領となり、上杉氏はここに居館を構えていた。上杉氏が光福寺(のちの安国寺)といつごろから関係をもつようになったかは明らかでないが、南北朝時代より前から氏寺であったものと思われる。安国寺と上杉氏・足利氏との関係は「安国寺文書」によって知るほかはないが、その中で最も古いものは建武元年(一三三四)上杉朝定の書状である。

   其後久不啓案内候 不定心之極候 抑八田郷内能登房跡事 当寺寄進 申候年内不幾候 併期明春候 恐惶謹言

     建武元年十二月廿七日

                 朝 定(花押)

   光福寺方丈侍者御中

 八田郷内能登房跡を光福寺に寄進するという趣旨であるが、「その後久しく案内を啓せず候」など親しい間がらであったことが文面から読みとれる。朝定は上杉氏の始祖重房の曾孫で上杉氏の嫡流であり、叔母清子は足利貞氏に嫁して尊氏・直義の兄弟を生んでいる。

 伝承によれば尊氏が生まれるとき、母清子は故郷丹波に帰り光福寺の山門下にあった別邸に住んで、光福寺の地蔵菩薩(現重要文化財)に安産を祈願し尊氏を生んだといわれる。その別邸はのちに安国寺に寄進され、常光寺という境外塔頭となっていたが、大正初年に廃寺となり、今は地元の公会堂となっている。その隣に尊氏生湯の井戸と称するものが現存している。

 『蔭涼軒日録』長禄二年(一四五八)十月二十四日の条に、

   「丹波安国寺内ニ等持院殿(足利尊氏)御髻 御袈裟座具ヲ安置シ奉ルノ事之ヲ披露御目ニ懸奉リ先規ヲ以テ御封ヲ付ラル也」

とあり、安国寺に安置している尊氏の遺品を、将軍義政に披露したことが記されている。これらの遺品はいまも安国寺に保存されている。

 上杉清子 清子は亡くなる四か月まえ、甥の上杉弾正少弼朝定にあて、光福寺へ寺領寄進の消息文をつたえている。(口絵参照)清子はその中で、夜久郷の内で光福寺へ寄進したいと思うから寄進地を知らせてほしい。殿(尊氏)へも相談したいからとし、

    (前略)「まつその程も知りかたき身にてさふらふ()ほとに申をき候 むま()れそた()ちたる所にて候程にうち()寺にもしたく候 御心え候へとて申をきさふらふ()

    かうゑい元年(一三四二) 八月十三日  花押(清子)

   うゑすぎ(上杉)のせう日ち(少弼)とのへ

と書いている。清子は康永元年十二月二十三日永眠しているから、これが最後の願いであったのであろう。「生れ育ちたる所にて候程に氏寺にしたく候」という文言は大切である。朝定は清子の希望の通り、清子の死んだ日に夜久郷の地頭に、今西村を光福寺に寄進するよう指示している。

   自大方殿(清子)仰下丹波国夜久郷之内今西村事可渡光福寺雑掌之状如

      康永元年十二月二十三日   朝 定(花押)

     備後八郎(源行朝)殿

右の指示にもとづいて地頭源行朝は、

    自上杉殿(朝定)仰下候之旨夜久郷之内今西村為大御所(尊氏)御寄進所渡進於光福寺座主之状如件

      康永二年三月十一日     源 行朝(備後八郎)(花押)

     進上光福寺座主禅師

と光福寺に寄進を報じている。今西村が尊氏の寄進として施入されたことは、母清子の望郷の情によるものであろう。

 この後光福寺は安国寺となり、足利氏の氏寺になっていった。延文三年(一三五八)六月廿九日には尊氏の遺骨一分と袈裟・座具を、貞治四年(一三六五)七月十六日には尊氏の妻登子の遺骨一分を、「先年帰依の由緒に就いて当寺に奉納せしむる所也」として二代将軍義詮が奉納している。いま安国寺の境内には尊氏・清子・登子の墓である宝篋印塔三基が並んで、足利氏とのゆかりを伝えている。

 尊氏の地裁信仰と国富荘の寄進 尊氏は母清子が安国寺の地蔵菩薩に祈って生まれたという縁があってか、地蔵尊を深く信仰していた。自ら地蔵尊像を措いて部将や寺院に与え、また元弘以来の死者の霊を慰めるために十万体の地蔵像を作ったといわれ、現に数多く残っている。足利義満が建てた鹿苑院(金閣寺)の本尊は尊氏の持仏の地蔵菩薩である(蔭涼軒日録)ことなどからみても、尊氏は生涯を通じて地蔵信仰にあつかったものと思われる。夢窓疎石が尊氏を評して、「合戦に命を捨てねばならないようなことがたびたびあったが、笑を含んで畏怖の心がない。」とか、「慈悲は天性であって人を悪むことがない。多くの敵を宥すること子のようである。」「心が広大であって物惜しみ気なし。」などといっているが、こうした性格は天性もあったであろうが、また地蔵信仰と無縁ではなかったと思われる。

 尊氏は建武二年(一三三五)に、国富荘石崎郷の地頭職を光福寺に寄進している。(口絵参照)

   寄附 丹波国八田郷 光福寺

   日向国国富荘石崎郷地頭職事

   右為祈四海之静謐一家之長久将亦

   為救相模入道高時法名崇鑑并同時所所

    滅亡輩之怨霊所寄附如件

    建武弐年三月一日 参 議(足利尊氏)(花押)

   光福寺長老

 この国富荘は元弘三年(一三三三)六月、北条氏討伐に功をたてた朝臣・武将たちに論功行賞が行われたとき、尊氏が与えられた武蔵国以下三か国の分国(知行国)と数か国の守護、多くの荘園所職のうちの一つであり、また丹波の六人部荘などとともに平頼盛家の所領で平家没官領からはずして、領家職を安堵されたところであった。これらはみな本所が八条院になっているから、もともと皇室領であったが、鎌倉末期には北条家に帰し、「比志島文書」には、国富荘は北条泰家(高時の弟)の所領の跡としている。国富荘は日向国宮崎・那珂・児湯の三郡にわたり、石崎郷はその中の一郷であって、現在は宮崎郡佐土原町になっている。

 寄進状は、光福寺へ石崎郷の地頭職を寄進したものであるが、この後暦応三年(一三四〇)、天竜寺へも国富荘内の田島郷を寄進している。こうして尊氏が後醍醐天皇から賜わった由緒ある荘園を光福寺に寄進したことは、「四海の静謐一家の長久」を祈るとともに、相模入道高時や、その他将士の怨霊の冥福を祈るためとしている。このことは当時の怨霊思想をあらわすとともに、後醍醐天皇の冥福を祈って天竜寺を創建し、諸国に安国寺・利生塔を建立する源流をしめすものとして注目されるところである。

 安国寺の成立 足利尊氏は宿願の征夷大将軍となって幕府を開くと、暦応元年(一三三八)夢窓疎石のすすめにより、後醍醐天皇をはじめ、元弘以来の戦死者の霊を慰め国家の安泰を祈願するため、国ごとに安国寺・利生塔を建てさせたが、丹波の安国寺には尊氏・直義の母方上杉氏の帰依する光福寺をあて、諸国安国寺の筆頭においた。光福寺から安国寺に改称された年代はあきらかでないが、「安国寺文書」によると、貞和二年(一三四六)の尊氏寄進状に、「丹州安国寺本号光福寺」となっているのが初見で、貞和四年の足利義詮の下知状では「光福寺長老」となっている。しかし貞和五年以後はすべてあて名に安国寺名を使用しているから、貞和初期より安国寺と称したことがわかる。

 丹波の安国寺は応安四年(一三七一)諸山に列し、応永二十一年(一四一四)には、等持院・大徳寺などとともに京都十刹の寺格を与えられ、丹波・越後・日向などに荘園を持ち、寺領三千石・塔頭一六・支院二八を有する地方きっての大寺となった。

 安国寺始祖天菴妙受 尊氏は康永元年(一三四二)十二月、南禅寺の天菴妙受を招いて安国寺の開山始祖とした。妙受は高峯顕日の弟子で、天竜寺の夢窓疎石と同門である。元朝の代、天竜山の虚堂禅師に学び、帰朝後関東万寿寺に住し、ついで真如寺(京十刹)・浄智寺(鎌倉五山)・南禅寺(五山上位)に歴住した高僧である。この妙受を丹波に請じたことは、尊氏がいかに丹波の安国寺を重視していたかが想像できるところである。

 妙受が安国寺に入ったとき、同門の乾峰士曇が書いた祝辞が残されている。「天菴和尚入寺山門疏」とよばれる堂々とした書で、重要文化財に指定されている。妙受は安国寺に住すること三年、貞和元年(一三四五)十月二十一日、七十九歳をもって遷化したが、その直前病床に座してつぎの遺偈(ゆいげ)を残したという。いま遺偈の一軸が安国寺に秘蔵されており、その文言墨蹟には禅僧の面目躍如たるものがある。

   幻生幻滅

   寂滅現前

   千江有水千江月

   万里無雲万里天

    康永四年(貞和元年)十月廿一日

    珍重首座大衆妙受 (花押)

 妙受は死後、朝廷より仏性禅師の称号を賜わり、安国寺の正賡庵、真如寺の宝光院および浄智寺の正覚菴にそれぞれ分骨してまつられている。

 安国寺の寺領 上杉氏・足利氏の氏寺となった安国光福寺は、南北朝のころより上杉氏・足利氏によってたびたび寺領の寄進を受けており、「安国寺文書」によれば左の通りである。

    年 月 日     寄進者   所領地・所職

   (一三三四)

   建武元・十二・廿七  上杉朝定  八田郷内能登房跡

   建武二・三 ・一   足利尊氏  日向国国富荘石崎郷地頭職

   建武三・二 ・九   上杉朝定  八田郷上村内貞行名

   建武三・十 ・一   沙弥顕性  西股理正番田 九反

   建武五・四 ・四   源資平   高槻保内守清名主職

   (一三三九)

   暦応二・十・十五   上杉清子  三河国額田郡日名屋敷

   暦応四・四・十三   上杉朝定  越後国鵜河庄内安田条上方

   (一三四二)

   康永元・十二・廿三  上杉朝定  丹波国夜久郷今西村

      同年八月十三日 上杉清子の寄進依頼書状あり

   (一三四六)

   貞和二・十二・廿八  足利尊氏 丹波国春日部荘内中山村

 右の表で見る通り、建武元年以来貞和二年に至るまでに九回の所領寄進があり、寄進したのは上杉朝定と足利尊氏がほとんどである。前に述べた夜久郷今西村は、上杉朝定の命により尊氏の寄進として光福寺に寄せたものである。この建武元年より貞和二年までの一三年間は、建武の新政が失敗に終わり、南北朝の戦乱の最もはげしく戦われた時代であり、尊氏も敗れて九州へ逃れたり、また勢力をもりかえして京都に入り、建武五年には北朝より征夷大将軍に任じられるなど、勢力の交代がはげしくくりかえされた時代である。その間に安国寺へ所領の寄進が相ついで行われたことは、国富荘におけるように怨霊を鎮めるためということもあるが、直接には足利一族の武運長久を祈ったものであり、さらには丹波のこの地域に、足利氏の勢力を植えつけるねらいもあったのであろう。

 寺領の変遷 これら寄進された寺領のその後の変遷について、「安国寺文書」より述べてみよう。寺領のうち三河国日名屋敷は上杉清子の寄進によるが、その後文書に一度もあらわれてこない。また日向国国富庄は尊氏の寄進による重要な荘園であるが、その後観応三年(一三五二)に義詮の下知状があり、在地武士の押妨の停止を命じているだけで、その後はあらわれてこない。越後国鵜河庄は上杉朝定の寄進であり、永和元年(一三七五)に足利義満が再び寄進を確認しているが、在地武士の押妨がつづき、たびたび幕府は御教書を出してその停止を命じている。康応元年(一三八九)管領斯波義将より、越後守護上杉氏朝へあてた毛利宮内小輔以下の輩の濫妨停止の御教書があって、そのあとに文書はない。これらからみて遠隔地の所領は、幕府の威令が行われない政情のもとでは領主権は侵されやすく、しだいに在地の武士に押寄せられ、安国寺の支配から離れていったものと思われる。

 安国寺の所領として長く保ちつづけられたものは、夜久郷今西村・春日部庄中山村・八田郷上村貞行名の三か所であった。「安国寺文書」によるとこの三寺領については、

   至徳四年  (一三八七)六月二十九日 将軍足利義満

   応永二十九年(一四二二)五月十四日   〃足利義持

   永享元年  (一四二九)十一月十九日  〃足利義教

   長禄二年  (一四五八)十月二十五日  〃足利義政

   永正五年  (一五〇八)九月十五日   〃足利義稙

右のように将軍御教書が出され、「貞和以来(尊氏の春日部庄中山村の寄進)度々の御判(御教書)に任せ寺家領掌相違あるべからず」と所領が安堵されている。これらからみて、一六世紀のはじめのころまでは、この三か所が安国寺の所領として支配されていたものと思われる。

 そうした中でも夜久郷今西村においては、荻野出羽入道常義が半済押領をするので、それを止めよという御教書がたびたび出されており、春日部庄中山村では、赤松筑前入道世貞の濫妨停止だとか、赤松伊豆入道の半済押妨を止めよとかの御教書が出されている。これら寺領に対する在地武士の押妨は、荘園として安国寺の支配が安定していなかったことをしめすとともに、在地にあってしだいに勢力を伸ばし、荘園を侵して領地を広めようとする土豪、のちに国人と称されて戦国期に活躍する武士たちの成長のすがたをしめすものである。半済というのは、荘園の年貢を武士に半分与えることである。在地の武士がそれを称して勝手に半分をとるので、荘園領主の大きな損失となったものである。

 八田郷内の安国寺領については、前に記した通り能登房跡 理正番田の九反 高槻保内守清名主職と貞行名があるが、貞行名のほかはその後の状況は明らかでない。ただ永和三年(一三七七)の室町幕府奉行人の奉書があり、貞行名以下寺領について、「給主の綺(いろい)(干渉)を停止されるべき」旨が記されているところをみると、もとの持ち主がしだいに実質的な領主権をとりもどしたのではなかろうか。

 岩王(しゃくおう) 岩王寺は八田郷上村(現在の綾部市七百石町)にある真言宗の古刹である。

 元弘三年四月、足利尊氏が篠村において兵を挙げたとき、上杉兵庫入道の命により足利氏の戦勝を祈願し、その功により建武元年三月、尊氏より田地二町の寄進を受けた。その寄進状と寄進田数目録が、同寺に保存されているが左の通りである。(口絵参照)

     足利高氏寄進状

    奉寄 丹波国八田郷岩王寺

     同郷内田地弐町事

    右奉寄如件

    建武元年二月九日

        左兵衛督源朝臣(足利高氏) (花押)

     源資憲 藤原利貞連署寄進田数目録

    御寄進 岩王寺八田郷上村内田地貳町事

      合

   一 兼里名内正守田壱町参段弐拾伍代

   フシ木ノ本          ラ中ノマヘ       アシナワテ

    一所 壱段  漆()斗代  一所 参拾代 捌斗代  一所 肆段  捌斗代

   サイノマヘ          イケマチ        ナカマ

    一所 参段  捌()斗代  一所 壱段  伍斗代  一所 壱段  捌斗代

   同所             スロ田         大荒田

    一所 壱段  陸()斗代  一所 参拾代 漆斗代  一所 壱段  捌斗代

   同所

    一所 拾伍代 陸斗代

   一貞遠名内田陸段弐拾伍代

   ヲハタノ西      同所 

    一所 壱段 捌斗代   一所 弐段  漆斗代

   ヲハタノマヘ     ヲハタの下

    一所 弐段 捌斗代   一所 壱段弐拾伍代 捌斗代

   都合田弐町内 捌斗代  壱町肆()段伍代

          漆斗代  参段参拾代

          陸斗代  壱段拾伍代

          伍斗代  壱段

         右御寄進田数目録如件

          建武元年卯月十三日

                 源 資憲(花押)

                 藤原利貞(花押)

 これには、兼里名内正守田と貞遠名内の田の名があり、名田の存在を示すとともに、当時の田積を代で表すことや、年貢を斗代で定めていることなどがわかり、中世の土地制度を知るための貴重な史料である。

 淵垣八幡神社 八田郷は上杉氏の所領であるが、一円支配ではなく散在的な領有であったと思われる。「上杉家文書」によれば応永七年の文書に、「八田郷は仁木義尹に宛行(あてが)うけれども 八田本郷内四名は上杉憲基にあてがう」とある。この仁木氏は足利氏の流れであり、足利尊氏の側近として活躍し、丹波国守護となった仁木頼章の家系である。

 仁木頼章は淵垣の八幡神社を造営しており、そのことは社殿に保存される棟札で明らかにされた。しかもこの社殿が地方の神社では珍しい三間社造に建てられていることから、仁木氏の並々ならぬ力の入れ方がうかがえるのである。(中世の文化の項248p参照)

 南北朝の戦乱はげしい中で、足利一族が寺領寄進のほかに源氏ゆかりの八幡宮を八田郷に造営したことは、何鹿郡と足利一族との関係の深さを一そう感じさせるものである。

◎写真【上杉朝定書状(安国寺文書)166p

◎写真【宝篋印塔(安国寺)168p

◎写真【安国寺】171p

◎写真【天菴妙受の遺偈(安国寺文書)172p

◎写真【室町幕府御教書(安国寺文書)175p

◎写真【淵垣八幡神社】177p

 

 

 

     第三章 応仁・戦国の争乱と丹波の国人『上巻179p-205p

 

   第一節 応仁の乱(179p-183p)

 

 将軍家・管領家の相続争い 応仁の乱は応仁元年(一四六七)京都で起こり、それより都を戦場として一一年にわたって戦われ、花の都を焼野原にしてしまうとともに、その後一〇〇年間にわたる戦国時代のはじまりとなった。この一〇〇年間に、平安時代以来つづいてきた古代律令制による荘園領家などの権威と実権は全く地におち、荒々しい戦国大名によって領地の一円支配が進められ、近世大名制への基礎づくりがなされたのである。この乱の直接の原因は、将軍家や管領・守護大名家の家督争いにあったが、一方には生産力の向上による商工業者の実力が大きくなり、広い商圏を求めたこと、また、しだいに惣村的結合を強めていった地方農民の、領主に反抗する力などが基盤にあった。

 もともと、武士の血縁集団である家門の長を家督または惣領とよび、これに従う一族の構成員を家子庶子といった。平安末期以来武士の所領は分割相続が原則で、庶子は一応独立しながら全般的には惣領の統制に服するという体制がつづいていた。ところが鎌倉中期以降になり、所領を拡げることが期待できなくなると、所領の分散を防ぐため単独相続の形があらわれ、室町中期にはこれが一般的になってきた。そこでは、庶子は惣領の家臣とならなければならないので、惣領の地位の争いがはげしくなるのである。しかも中世では嫡長子相続制がまだあらわれず、子弟のなかの器量人、すなわち実力のあるものが惣領として父祖に選ばれることになっていたから、抗争の原因となることが多かったのである。

 八代将軍義政は、はじめ子がなかったので弟義視を還俗させ、細川勝元を後見人として後継者に迎えたが、その後実子義尚が生まれたので、母富子は山名宗全(持豊)を後見人として義視に対抗しようとした。

 管領家の斯波氏においては義健に子がなく、一族の義敏を養子にしたが、義敏は幕府の命令にも従わないため追放され、新たに同族より義廉を後継者として迎えた。時の管領細川勝元は、幕府に義敏の復帰を願い出て将軍義政の許可を得たため、斯波家には二人の後継者ができたことになり、家臣団を二つに分けての家督争いとなった。

 またこれも管領家の畠山氏は、将軍義政をもり立てた持国に子がなく、弟の子政長を養子に迎えたが、実子義就が生まれたので持国はこれに家督を譲ってしまった。重臣たちはこの処置を不満とし、細川勝元の援助をうけて持国を隠居させ、義就を退けて政長を畠山家の当主とした。追放された義就は山名宗全の援助をうけ、将軍義政の許可を得て復帰の身となった。こうして畠山家の家督争いが表面化した。

 応仁の乱と丹波国人衆 将軍家・管領家それぞれの家督争いから起こった対立が激化し、双方が細川勝元方と山名宗全方に分かれて全く天下を真二つに割ってしまった。

 応仁元年正月、京都上御霊社の辺りで畠山政長と畠山義就の軍が戦闘を開始したのをきっかけに、細川勝元と山名宗全は東西に分かれ、各々味方する守護大名や地方豪族を京都に呼び集め、洛中・洛外を戦場として合戦を続けること一一年、京都を焼野原と化した大乱となったのである。『応仁記』によれば、戦いのはじめのころの兵力は細川方(東軍)一六万、山名方(西軍)一一万の大軍であった。

 東西両軍にはせ参じた守護大名たちにとっては、領国の国人衆が兵力であった。国人というのはこのころの在地領主のことで、地頭あるいは名主として直接農民を支配していた武士である。

 応仁の乱が起こった時、細川氏の被官で摂津の国人某が馬上一二騎、野武士一〇〇〇人ばかりを率いてまかり通った(後法興院記)とか、大和の国人越智家栄が西軍に応じ、代官一族六人、甲一五〇人、人二〇〇〇人を率いて上京した(経覚私要抄)とかの例からみると、当時の軍隊組織は騎馬武者・徒士武士と、足軽とよばれる浮浪の徒の集まりによって構成されており、特に身軽な武装で縦横に動きまわる足軽が大きな役割を果していた。

 丹波は細川氏の領国であり、京都を制圧するのに最も地の利を得ていたので、丹波の国人衆が動員されたことは、「応仁元年二月、細川勝元は丹波で族党兵を募る。」という「丹波史年表」の記事でも推察される。『応仁記』によれば、細川教春が丹波勢二〇〇〇余人を率いて参加しているし、京都への攻防が丹波を直接戦場にさらしていたこともあった。

 応仁元年七月、勘合貿易による細川氏との対立から山名方についた西国の雄大内氏が、九州・中国・四国の大軍を山名氏の本拠但馬に集めて丹波に攻め入り、これを細川方の丹波守護代内藤備前守貞徳が夜久野において迎えうったけれども、衆寡敵せず、一族数十人が討ち死した。(朝来志録)応仁二年三月には、細川方内藤氏が丹波の国人衆を率いて但馬の朝来郡一帯を侵略(応仁記)したことなどあった。

 戦闘のはじめ、先制攻撃をかけられた山名方の兵八万が、はやてのように丹波を制圧して上京したことがあり、また応仁二年(一四六八)九月には細川勝元の命により、守護代内藤元貞は久下・長沢・荻野・本庄・足立・芦田等の丹波国人を率い、大江山(老ノ坂)を越えて山名軍の背後をつこうとし、北山から嵯峨野あたりに進撃して寺々を焼き払い西軍と激しく戦ったが、抜くことができず、大江山に引き下がった。こうして戦乱は洛中から洛外にまでおよび、洛中は全くの焼野原と化してしまった。長期化した戦いに、両軍の武将の中には領国の不安もあり、しだいに京都を捨てて自分の領国へ帰って行くものもあらわれた。

 文明四年(一四七二)ころより休戦の気運が出はじめ、文明五年三月に山名宗全、続いて五月に細川勝元が相ついで没したので、翌文明六年、一応和議が成立したが争いはなかなかおさまらなかった。そのうちに地方では守護にそむくものがあらわれはじめ、文明九年、対立の中心であった守護大名たちが兵を収めて帰国するようになったので、京都を中心とする応仁の乱は一応終わりをつげた。有力被官や地方豪族たちは守護の支配から自立して領地を治め、隣国と争い、古い権威をうち倒し、下剋上の世の中となっていった。

 応仁の乱に丹波の国人で兵を率いて戦ったものは数多くあったであろうが、波多野一族・久下一族・北桑田の川勝氏・福住城主仁木氏・高山寺城主大館氏・位田の荻野氏・物部の上原氏・上林の上林氏・郡代広戸氏など、当時の古文書に名のあがっている在地領主たちは、おそらく細川氏について戦闘に参加したものであろう。「大槻旧記」に、「応仁元丁亥五月廿六日天下大いに乱れ民家亡び国々里在村々所々下人官人普代相伝の輩面々甲斐なく在所在所に行き要害能処に館を構え隣郷隣在寺社民屋へ夜打強盗放火盗財相止まず」とあって、その戦乱期のようすを伝えている。

 

    第二節 何鹿の国人(183p-198p)

 

 応仁の乱後、戦乱は地方にうつり、在地領主は山城を築いて守りを固め、領地を拡げようとして近隣の領主と争いをつづけた。いま、市内の至るところに城山と伝えられる小高い山や丘陵地が残されているが、中には城主某と云い伝えられているところもずいぶん多い。これら城主のうち、勢力のあった者についてその動きを述べてみよう。

 上原氏 前に述べたように上原氏は信州諏訪出身の関東御家人であり、何鹿郡物部に地頭として入ったものである。諏訪神社をまつったことや、物部を流れる川を犀川と名付けたことなど、いずれも上原氏の出身を説明するものである。物部に入ってからあと長く歴史にあらわれてこないが、何鹿郡西部を支配して在地領主となり、南北朝から後、丹波の国人衆として細川氏について活動していたものであろう。

 明徳二年(一三九一)、山名氏が幕府に叛いて敗れた明徳の乱の後、山名氏に代わって細川氏が丹波の守護職となったが、領国の支配は守護代にまかせた。最初守護代に任じられたのは細川氏の本拠ともいうべき讃岐の地侍香西氏であって、香西氏は細川家の重臣として戦国時代まで活躍している。

 永亨三年(一四三一)、「丹波の守護細川持之は丹波の守護代香西某を罷め 内藤元貞(八木城主)を以て之に補せんことを幕府に請う」(満済准后日記)とあり、「安国寺文書」によると、長禄四年(一四六〇)には郡代広戸九郎左衛門尉に対して、内藤元貞が守護代として下知状を出している。内藤氏は、永享のころより明智光秀が丹波攻略にかかった天正のころまで一〇〇余年にわたって、時に勢力の盛衰はあったが丹波の守護代として口丹波を中心に勢力を張っていたものである。その間、物部の上原氏もまた丹波の守護代を称していたものとみえ、「楞厳寺縁起」に、「延徳元己酉歳十一月六日荻野 大槻諸牢人卜為テ 当国守護代上原豊前守同紀伊守父子へ訴訟卜号シ 謀叛ヲ企ツ」とある。

 上原氏は上延の愛宕山にも城を構え、(諏訪城)一族を配置しており、また、隣村志賀郷の北野城主および天王山城主の志賀氏や、小畑城主の波々伯部氏、報恩寺城主の片岡氏等に対立して守護代の貫禄をしめしていた。上原豊後守政忠のとき、大永五年(一五二五)に焼失した菩提寺高屋寺の再建を行ったり、永禄二年(一五五九)には上原右衛門大輔は報恩寺城の片岡近江守を滅ぼし、何鹿郡西部地方で並ぶもののない存在となっていたようである。

 信長朱印状 中央では織田信長が近畿地方の戦国諸大名をしだいに従え、永禄十一年(一五六八)足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を将軍職につけた。またその後もしばしば京都に入り、内裏を修理するなどして朝廷の信任を得、天下平定への足場を築くようになった。ついで丹波攻略を企てたものとみえ、物部城の上原氏に次の下知状を出している。

   丹州本知並に丹後国在治(有路)郷上下寺社本所付諸奉公方任御下知之旨不可有

   相違之状如件

    十月十四日 信長 (朱印)

      上原右衛門少輔殿

 この文書は梅迫町の渡辺家に所蔵されているもので、年号は記されていないが、天下布武の朱印の形からみておそらく永禄十一年(一五六八)ころのものと思われる。上原氏は信長より本領安堵と物部隣村の丹後有路村を得て、信長に同心したものであろう。

 信長が上原氏をその陣営に入れようとしたのは、何鹿郡方面における上原氏の伝統的地位と実力を買ったものであろうが、いま一つには由良川筋の加佐郡有路郷を与え、福知山の塩見氏(元小笠原姓、横山・奈賀山・和久も同族)制圧に利用しようとしたものであろう。

 塩見氏は猪崎城を本拠として、横山城(後の福知山城)・牧ノ庄に中山城・和久庄に山田城を築き、一族を配置してがっちり天田郡を固めていた。いま塩見氏の子孫と伝えられる家に、丹波の守護細川高国と、その弟晴国よりの書状が多く保存されている。それによると、塩見氏は細川氏に従い小畑城主の波々伯部氏や、高津城主大槻氏などとともにたびたび出陣している。享禄四年(一五三一)高国が細川晴元と戦って敗死した尼ケ崎の合戦にも出陣していることがわかる。(横山硯)また永禄三年(一五六〇)鬼ケ城主内藤氏を丹波の国人衆が攻略したときも、地元豪族として参加したり、永禄八年(一五六五)赤井氏が横山城を攻めたときも、小畑城主波々伯部源内の援けを求めて撃退したこと(横山硯)もあって、塩見一族の勢力はこの地方で最も大きかった。この塩見氏をおさえるために、信長が上原氏を利用しようと図ったことも考えられる。

 上林氏 丹波国上林庄から出て山城の宇治茶の元祖となり、江戸時代、幕府の御物茶師の頭取りとなった上林氏は、何鹿郡の上林を姓とし上林に住んでいた土豪である。

 上林氏は清和源氏赤井氏流で、芦田・荻野・大槻などと同族である。「丹波赤井氏系図」によると、源頼信四代の孫家光、故あって丹波に流され、家光の子道家以来数代にわたって丹波半国の押領使となったが、朝家のとき承久の乱に京方についたため所領を没収され、為家のとき丹波氷上郡赤井野に住しはじめて赤井と称し、氷上・天田・何鹿の奥三郡を領したという。(建保三年朝家譲状)

 為家の曾孫秀家は足利尊氏に従って功をたて、何鹿郡上林庄に住み、初めて上林氏を称したとあるから、秀家は室町幕府の被官で上林地方の地頭として入部したものであろう。

 秀家の九世の孫氏忠のとき、山城の宇治に移住し(前代記録)茶業にたずさわったようすであり、子久重も宇治で没している。しかしその後も上林氏は依然として上林荘の支配者であり、一族は庄内各地にとどまって、在地豪族として分立発展していった。上林氏忠がなぜ宇治に移り住んで茶業にたずさわるようになったかはいまのところわからない。あるいは上林荘が茶栽培の先進地であったか、また何かの理由で上林氏が茶について特技をもっていたのかもしれない。

 宇治の上林氏 宇治茶の起源は、鎌倉時代に栂尾の明恵上人が建仁寺の栄西から中国移入の茶の種をもらい、山城の宇治に分栽したのがはじめで、室町時代には足利義満が自ら宇治に茶園を設けるほどの熱心さであったので、宇治茶の名声は全国に聞こえるようになった。足利義政は銀閣寺を建てて茶の湯を盛んに行ったが、当時すでに茶園におおいを用い、良茶を生産するようになっている。

 宇治茶の最も早い開拓者は堀家で、ついであらわれたのが上林家である。大永四年(一五九二四)、上林氏は一度買った茶園を堀家へ売り渡して(兼見卿記)いるから、何鹿郡上林荘から上林氏が宇治へ移住して茶園をはじめたのはそれより前で、おおよそ永正年間(一五〇四―一五二〇)ではなかろうか。それより約六〇年後の天正十二年(一五八四)には上林家は宇治一番の茶園を有し、焙炉(ほいろ)四八、茶摘み女五〇〇人を使用する大茶業師になっており、当時宇治茶で有名になっていた森家をはるかにしのいで、その約三倍の規模をもっていた。(京都の歴史)

 氏忠の子久重は宇治に没し、長子久茂は宇治を相続して信長・秀吉に仕えている。久茂の弟政重は天文十九年宇治に生まれ、一時、領国丹波の上林荘に住んでいたようである。元亀二年、三河におもむき家康の家臣となって一〇〇石を賜わり、岡崎城下の奉行に任じられていた。

 天正八年(一五八〇)、辞して宇治へ帰り、もっぱら茶業に従った。政重は竹庵と号し、森氏の所領三〇〇石をうけつぎ、本家分家並んで宇治郷の代官家として分立することになった。本家久茂の子孫は峯順、分家政重の子孫は竹庵を名乗って代々宇治の御物茶師の頭取りとなって栄えた。

 光明寺と上林氏 中世において、君尾山光明寺は上林全域に勢力をもち、領家的存在であったと思われる。そうして上林地域には、上林氏をはじめ中嶋・福井・渡辺などの土豪がいて在地を支配していた。ところが大永六年、後に述べる大永の乱がおこり、細川高国方についた上林の地域は氷上郡の赤井氏に攻めこまれ、光明寺をはじめ多くの寺院が焼かれた。

 高国はそのあと弟晴国に光明寺の再建を命じ、晴国は再建の勧進を許し、部将上羽丹波守をこれに当らせた。天文二年再建成ると伝えているが、完成までにはあと数年を要したのであろう。光明寺に残されている当時の「勧進奉加帳」によると、在地領主・土豪・寺院・住民等が応分の奉加を行っており、光明寺が地域において占める地位の大きさを知るとともに、庶民信仰のようすをさぐることができる。奉加帳に記されている上林氏を挙げると、

   参拾貫文 上林新左衛門尉  伍貫文   上林孫九郎

   弐拾貫文 上林伊豆守    柱一本   上林遠江守

   壱貫文  上林左衛門尉   三拾疋   上林八郎

   三拾疋  上林八郎右衛門  三拾疋   上林左京進

   五拾疋  上林大和守    壱貫五百文 上林修理進

   五百文  上林豊前守

 天文二年から五年ごろまでに奉加帳に記載された上林氏は前記の一一名であるが、中には親子の分があるとしても数家は下らないだろう。上林政重が上林を出たのは元亀二年(一五七一)であるが、それ以後も上林氏の一部は上林に残っていた。たとえば天正二年、織田信長の家臣高田豊後守が若狭から奥上林に入り、生貫山城の上林下総守を降した(丹波史年表)後も、豊後守は奥上林の山内に城を築いて生貫山城を上林氏に返しているようであり、天正八年、明智光秀が山家城主和久左衛門佐を攻略したとき、取り逃したので捕えるよう和知の土豪に与えた下知状(御霊神社文書)の最後に、「猶上林紀伊守可申候」とあるところから、上林氏が光秀の配下として天正八年に存在していたことがわかる。その後上林氏一族がすっかり上林を離れ、宇治その他へ出ていってしまったのは、秀吉が丹波の蔵入地支配を除々に整理して、大名領国を定めるころと思われる。何鹿郡では天正十年に山家一万石を谷氏に、天正十五年には上林で一万石を高田豊後守に与え、大名領国に切りかえたころである。そして宇治における上林氏の茶業・茶師としての成功が、遠国知行を自然切り離すことになったのではなかろうか。江戸時代より後、上林には上林氏を名乗る家が全くなくなっている。

 波々伯部(ははかべ) 太田亮著の『姓氏家系大辞典』によると波々伯部氏は、「藤原姓で多紀郡波々伯部より起る」とし、八木町誌では「藤原房前より出づ」としている。また六波羅下知状によると、波々伯部保(多紀郡城東町)は正安元年(一二九九)祇園感神院領となり、その後、建武元年(一三三四)波々伯部保下司波々伯部信盛が領家職となっている(八坂神社文書)から、おそらく平安末期か鎌倉時代のはじめ丹波に来て、波々伯部保の下司としてその地に土着し、波々伯部氏を称したものであろう。鎌倉時代には在地領主となり、元弘元年(一三三一)波々伯部為光が居住地に波々伯部城を築き、(丹波史年表)足利尊氏の挙兵に馳せ参じ、以後、多紀郡を本拠として足利氏に仕え、のち丹波守護細川氏の家臣となった。南北朝時代に入ると間もなく船井郡に勢力を伸ばしてきたようすで、正平六年(一三五一)八月、波々伯部源次郎という者が内藤孫四郎と計って神護寺領吉富庄(船井郡)を押領し、丹波守護仁木頼章より停止の命を受けている。(丹波史年表)内藤氏は鎌倉時代以来の豪族で、南北朝時代に内藤季治が多紀郡の曾地城(城東町)に居住して(丹波史年表)以来、丹波の豪族として勢力を伸ばしていた。

 正平年中、波々伯部氏は内藤氏とともに船井郡に足場を築いて八木を基地とし、内藤季治の子季継は八木城主となり、波々伯部氏はその下に属して代々家老職についたものである。室町時代に内藤元貞・貞正・国貞らは丹波の守護代となり、のちに内藤氏は波々伯部氏とともに八上城主の波多野氏につき、運命をともにしていった。

 小畑城の波々伯部氏 大永より天文へかけて丹波を戦火にまきこんだ大永の乱において、丹波守護代の内藤氏は細川高国方を固め、また丹波統一の野心もあったとみえ、何鹿郡の鴻ケ嶽城(大島町)に一族の日向守正綱を、小畑城(小畑町)には重臣波々伯部の一族を置き、永禄のはじめには福知山の押えとして鬼ケ城にも一族を派遣した。

 波々伯部氏が何鹿郡に入った時期については何の資料も発見できないが、内藤氏の勢力がこの地におよぶようになった永正のはじめころではなかろうか。それより天正七年(一五七九)、光秀の丹波攻略で滅亡するまで、長くても六、七〇年ほどの間ではあるが小畑城主として威を張っていたものであろう。小畑城の波々伯部氏が、細川高国あるいはその弟の晴国に従って奥郡の土豪たちとともに活躍したことは、福知山城に残された『横山硯』や「塩見家文書」で知ることができる。享禄四年(一五三一)尼ケ崎合戦に出陣した丹波の土豪について『横山硯』は、

   「享禄四年京詰の折節摂津尼ケ崎の合戦日々増長せり 是によって細川高国殿討手に仰付けらる 此時天田郡にては横山の城主小笠原大膳頼氏 奈賀山隈岐守長頼 何鹿郡にては大槻右京太夫信高 波々伯部伊勢守 笹山の八上城主波多野両家等 各細川公の幕下に属し尼ケ崎へ討出云々」

と記している。この細川晴元との合戦は高国方が敗れ、高国は自殺し、丹波の土豪、足立・波々伯部・細見・牧等は討ち死、(丹波史年表)志賀郷の土豪志賀四郎兵衛尉もともに討ち死している。(志賀氏系図)次いで永禄八年(一五六五)三月、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正は隣郡天田郡を押えようと、芦田・足立・久下等の族をたのみ、福知山、横山城の横山大膳亮を包囲して攻め落とそうとしたが、横山城側の計略にかかってさんざん敗れ赤井勢は退却した。この合戦に横山城主一族の姻戚、小畑中村の城主波々伯部源内義信が加勢して戦っている。

 小畑城の波々伯部氏が消滅するのは、天正七年明智光秀方の猪崎城主塩見家利討滅のころであろう。『横山硯』によると、光秀は四王天・木下らの武将とともに数万の軍をひきいて、横山・和久・中山の城をおとし入れ猪崎城にせまった。城主家利は、とても勝ちめなしと城に火をかけて落ちていこうとしたが、追手に打たれてしまった。奥方は親元の波々伯部の方へ逃げ帰ろうとしたが三坂峠で討たれ、「まことにあわれな次第なり」としている。このあと小畑城の波々伯部氏は滅ばされたものと思われる。

 猪崎城主の妻が遺児を抱いて三坂峠まで来たところ追手に打たれたという哀話は、三坂女郎物語としていまに語り伝えられており、このとき血に染まった太刀を洗ったという御太刀池や、明和六年に建てられた供養塔が三坂峠の上に残っている。

 波々伯部氏はこうして光秀の丹波平定のかげにはかなく消えていき、生き残って帰農した一族がわずかにその姓氏を伝えているにすぎない。

 志賀氏 志賀氏は清和源氏頼政の流れと、武内宿弥の流れの二つの系図を伝えており、ともにこの地に来て志賀城主となり、志賀姓を称えたとしている。この系図は江戸時代中ごろに作ったものらしく、作為したところがあると思われるが、戦国末期のころ、四流に分かれて活動している資料が残されているから、おそらく室町初期に吾雀庄に入ってきた一族であろう。吾雀庄に入ってから、北野城(志賀城)あるいは天王山城の城主となったもの、丹後国田辺郷の代官職になったもの、また吾雀庄山尾の名主になったものなどあり、戦国の地方豪族としてこの地方に威を張ったのである。

 「北野城主家」は応永年間(一三九四 一四二七)頼宗がはじめて何鹿部志賀城主となり、鎮守として諏訪神社を勧請するとともに、城山の台地に菩提寺の北野山養源寺を創建したという。頼家より志賀家は土地に定着して土豪的な領主になり、民政にも力を注いだ。城の北東の谷に築造した大規模な北野池は、貴重な水源としていまも利用されている。

 頼宗九代の孫政綱のとき、明智光秀の丹波攻略の際降伏してその配下となったものとみえ、天正十年、山崎の合戦に光秀に従って出陣し、敗戦により討ち死している。政綱の子頼久は三歳の幼児であったが、乳母の里加佐郡桑飼村にのがれ、ここにかくれ住んだ。

 「山尾領主家」は永正九年(一五一二)から志賀八良右衛門尉が山尾村を一円支配し、小領主となったものと思われ、「志賀家文書」に、永正九年に近江守行秀より志賀八良右衛門尉に吾雀庄之内山尾村「田畠山林并下人等事一円」を永代譲り渡した書状が残っている。近江守行秀はどのような人物かわからない。また左の書状も残されている。

   就料所丹後国田辺御代官職之儀 志賀次良右衛門尉申付 子細在之上者 任彼申旨致其働者可為神妙候也 謹言

    九月二日    高国(花押)

   志賀一族中

 右の次良右衛門尉は、「志賀家系図」によると大永二年(一五二二)丹波国守護細川高国に仕え、享禄二年(一五二九)九月二日、丹後国田辺郷の代官職に任じられ、一族郎党を引きつれて田辺へ赴いたようである。

 享禄四年、高国は尼ケ崎の戦いに敗れ自殺したが、この戦いにも次良右衛門尉の長子四郎兵衛尉が高国に従って戦い、討ち死している。次良右衛門尉は次子五良左衛門尉とともに田辺を守っていたようであるが、高国滅亡の後、細川晴元が管領となったのでその配下となり、各地に転戦したとみえて、

   去十六日高野孫三郎 要害責落時粉骨由 芦田越前守 注進到来 尤以神妙候也 謹言

    七月廿一日 晴元(花押)

   志賀五良左衛門尉殿

という感状が残されている。天文年間のことと思われる。志賀家系図によると、次良右衛門尉は天文二十二年、何の戦いかわからないが田辺で討ち死したとあり、子の五良左衛門尉は同年家来六人をつれて山尾へ帰り、農業を営んだとしている。

 室町初期に吾雀庄へ入ってきた志賀氏は、戦国時代に地方豪族としてたびたびの戦に参加していたがのちに帰農し、近世に入ってからは庄屋として農村の中で重きをなしたものである。

 大槻氏 大槻氏は南北朝時代より郷土史上にその名があらわれ、戦国時代を通じて活躍する何鹿郡の国人であり、高槻城主・大石城主・八田城主・栗村一尾城主・大畠城主・高津城主などがある。これら大槻氏の出自や同族関係については諸説があって明らかでない。

 「大槻旧記」によれば、大槻右馬頭清宗が足利尊氏に従い、何鹿郡・天田郡の地頭となったとあるが他に傍証がない。確かな史料に初めて出るのは、「観音寺文書」の文明十一年(一四七九)高津観音寺への土地寄進状にみえる大槻豊前入道盛雅である。大槻盛雅は田壱段廿五代を「御屋形様御祈祷四季簑摩供のため」に寄進すると述べ、翌文明十二年に霊供田として田壱段を寄進するにあたり、「右の田は盛雅重代相伝の地なり」としている。この寄進状からみて、大槻盛雅家が前々から高津に住んでいた有力な名主であり、文明のころより守護の被官となっていったものと考えられる。

 「楞厳寺縁起」に、「廷徳元年(一四八九)大槻・荻野両氏が位田城に拠って守護代上原氏に叛く」と記されている大槻氏は、高津城主か八田城主かわからないが、上原氏に対抗する勢力となっていたことがうかがえる。

 その後、永正二年(一五〇五)には大槻筑前守が、天文十七年(一五四八)には大槻長門守が守護代内藤氏より下知状を受けている。(安国寺文書)その内容は、長禄四年(一四六〇)内藤氏より何鹿郡代広戸九郎左衛門尉に宛てた下知状と同じように、安国寺の保護を命じたものであって、大槻氏が何鹿郡代か、それに近い地位にあったことを思わせる。天正二年には大槻監物丞吉高が観音寺へ重代相伝の畠を寄進しており、(観音寺文書)高津八幡宮には、天正年中に没したという大槻安芸守辰高の画像が残されている。

 その他に福知山市猪崎の「塩見家文書」や、栗村の「城山軍記」などに大槻氏の活躍が記されている。八田城主の大槻清勝は豊臣秀吉・秀頼に仕え、大阪夏の陣で討ち死したと「大槻旧記」では伝えている。

 これらの大槻氏が一族であることを確める資料はいまのところ見つかっていない。しかし口碑・合戦記などの伝えの通り、大槻氏が戦国末期に自立し、八田・栗・高津方面の山城に拠っていたことは間違いない事実である。そうして明智光秀の丹波平定の時か、あるいは豊臣氏滅亡のときに敗れて農民となっていったものと思われる。

 荻野氏 荻野氏は荻野氏系図によれば宇多源氏としているが明らかではない。荻野氏で史上最も有名なのは、南北朝時代の尾張守朝忠である。荻野彦六朝忠の本拠は氷上郡葛野庄で、天田郡地方にも勢力を伸ばしていたものと見え多くの伝承を残している。『大日本史』によれば、朝忠ははじめ児島高徳らと組み、後には足利尊氏に服して丹波に重きをなしたが、国人の離反にあって没落したという。つぎに、その同族かどうかわからないが、荻野三河入道父子が康安元年(一三六一)天田郡雀部荘に乱入し、領家松尾大社の代官方上下百余人を討っている。(松尾大社東文書)また応安二年(一三六九)には荻野出羽入道が安国寺領夜久郷今西村を押領し、安国寺雑掌の訴えにより、幕府は守護にその回復を命じている。しかし押領はやまず、応永八年(一四〇一)には「拝領と号し 半済押妨」をするにいたっている。(安国寺文書)

 このような強引な「悪党」的行動は、在地に強力な基盤をもつことなしにはできないことであり、荻野氏は夜久野地方に大きい勢力をもっていたのである。またさらに何鹿郡にも勢力を伸ばしていたものとみえ、大槻氏とともに位田域に拠って守議代上原豊前守に叛いている。

 位田の乱 大槻・荻野氏と守護代上原氏との戦いを位田の乱とよんでおり、これについて『楞厳寺縁起』には次のように記している。

   「(前略)爰ニ延徳元己酉歳十一月六日 荻野 大槻諸牢人卜為テ 當国ノ守護代上原豊前守 同紀伊守父子ヘ訴訟卜号シ 謀叛ヲ企ツ 城槨ヲ構ヘ朝敵致ス 同十二月十三日ニ群勢守護ノ手當 寺へ打入悉資材ヲ奪取リ 十九日マテ逼留シ先引退リ 翌年庚戌六月廿八日ニ位田城ヘ国中守護勢ハ申ニ及バズ 諸侍者兵革ヲ調ヘ思々出立同攻具足耳目ヲ驚ス者也 豊前守父子合力ノ為ニ 但州 摂州 備州ノ衆 彼レ是レ十三箇国ノ群勢城ヘ取寄リ 已ニ七月三日火攻アリトイヘドモ落チズ 寄手被疵者数ヲ知ラス 同討死数十人 其後色々調法計略有リト雖 城ノ衆疼マス 同十一月十日 終ニ運ヲ開キ本宅立帰ラレ畢」

 この戦いは守護方の軍勢に加えて、但州・摂州・備州などの軍勢が上原氏に合力して位田城を攻めたもので、大きな戦いであった。『蔭凉軒日録』延徳二年七月三日の条に、

   「此日於丹波大合戦。物部豊前守為大将位田城。城七ケ所有之。此城者外城也。攻衆百余人被討手負五百余人有之。城衆亦五六人打死。此内須智源三弟又打死矣。」

と記され、「楞厳寺縁起」の記事と全く一致している。また延町の東光院の記録に、

   「当国何鹿郡位田乱二般若烟焼 庚戌歳 (延徳二年) 六月八日 上志方於古曽戸之宮烟焼」

とあって、岡町の本宮殿神社がこのとき兵火に焼けたことを記している。

 この当時七か所に城があり、位田城は外城であると記されているが、それらの城や城主についてはわからない。しかし岡町あたりも兵火にかかっているところをみると、相当広い地域で戦われていたものと考えられる。位田城に拠った荻野・大槻氏は、丹波と近国の軍勢に攻められても屈服せず、かえって攻撃軍に大きな痛手を与えている。こうした両氏の勢力は、やはり在地を確かに支配していたことにより培われたものであろう。須智源三は須知に居た土豪と思われ、守護代方の軍の構成をうかがわせるものである。

 位用の乱後の荻野氏・大槻氏の動向は明らかではない。両氏はともに有力地主より成長して、幕府・守護の被官となり、国人として在地を支配し、山城に拠って領主化の道を進んでいたが、明智光秀の丹波平定の戦いに敗れて帰農していったものと思われる。

◎写真【織田信長朱印状(渡辺和三郎家文書)184p

◎写真【君尾山光明寺の再建奉加帳】187p

◎写真【生貫山城趾】188p

◎写真【天王山城趾】192p

◎写真【大槻豊前入道盛雅寄進状(観音寺文書)194p

◎写真【室町幕府御教書(安国寺文書)196p

 

    第三節 大永・永禄の争乱(198p-205p)

 

 細川氏の分裂と高国 延徳元年(一四八九)将軍義尚が二十五歳で病死すると、さっそく母富子の支持する義稙(よしたね)と、管領細川政元の支持する義澄との激しい将軍職争いとなったが、延徳二年(一四九〇)義政の死によって急に義稙が十代将軍となった。そこで明応二年(一四九三)細川政元はクーデターを起こし、将軍義稙を廃して義澄を十一代将軍に擁立し、自らは管領として権力をほしいままにしていた。政元には子がなかったので、文亀二年(一五〇二)前関白九条政基の末子を養子として丹波の守護職を与えた。これが澄之で時に十四歳であった。しかし政元は、いまをときめく細川一族をおいて、公家出を家督にする必要はないと、翌文亀三年、阿波の細川家から十五歳の澄元を迎えて後嗣と決めた。これより細川氏は二つの流れとなって抗争が始まるのである。

 細川政元は一生妻帯せず、修験道に心酔し、「常に魔法をおこなって近国や他国を動揺させたり云々」(細川両家記)とあるように一風変わった人物であった。そこで改元の重臣薬師寺長忠(摂津守護代)や、香西元長(山城守護代)等は政元の奇行に細川家の将来を案じ、かつは澄元の代になれば阿波細川家の家宰三好氏の権力化を恐れ、永正四年(一五〇七)六月二十三日、政元が魔法を行うため行水しようと湯殿に入ったところを、右筆の天田郡の地侍戸倉次郎に殺させてしまった。さらに澄元をも殺そうとその館を襲ったが果たさず、澄元は三好良長をつれて近江へ逃げのびた。薬師寺らは丹波にいた澄之を迎えて細川の家督にすえたが、間もなく同年八月、澄元は三好之長や甲賀の国人衆を率いて上京し、澄之の館を襲ってこれを殺し、薬師寺・香西ともに討ち死した。これより前、追放されて山口にいた十代将軍義稙は、政元・澄之の死を知って西国の守護大名大内義興らに守られて上京しようとした。これを知った細川澄元は、同族の細川高国を味方につけて義稙の入京を押えようとしたが、高国は義稙側についてしまった。高国は永正五年、領国摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らに守られて入京、将軍義澄や管領細川澄元を追放して義稙を将軍に還補し、自らは細川家の家督をつぎ管領となった。大永元年(一五二一)将軍義稙は高国と不和を生じ阿波国へ脱走した。高国は義澄の子義晴を十二代将軍とし、自らは管領として幕府の実権を握った。

 大永の争乱と何鹿郡 ときに高国の下に、丹波守護細川尹賢と重臣香西元盛があった。二人は互いに権勢を得ようと対抗していたが、尹賢は元盛が文盲であることをよいことにして、元盛が敵方阿波の細川氏に内通しているという偽文書をつくり高国に訴えた。高国は真偽を確めるため元盛を館に呼びよせたところ、尹賢は大永六年(一五二六)七月十二日、勝手に元盛を謀殺してしまった。香西の兄、丹波八上城主波多野稙道と、弟の丹波神尾寺城主柳本賢治はこれを聞いて大いに怒り、阿波の細川澄元の子晴元を通じて同年十月、各々居城に反高国の兵を挙げた。これから高国・晴元の同族間の宗家争いと将軍家の家督争いとがからんで、丹波と京都を舞台として地方豪族の激闘がくり返されるようになった。

 波多野・柳本の挙兵によって丹波の豪族はいずれにつくべきかが大きな問題であったであろう。守護代の八木城主内藤国貞や氷上郡の赤井氏など、口丹波や、多紀・氷上郡の土豪が波多野方につき、天田・何鹿の土豪は高国方についたようである。

 天田・何鹿の土豪が高国方についた理由は確かな資料が乏しいので推定しかできないが、高国がまえまえから天田・何鹿両郡に勢力を植え付けていたことによるのであろう。高国は大永四年(一五二四)観音寺(福知山市観音寺)の山門を修理したり、(丹波史年表)大永五年六月には、

   奉書写大乗妙典一部一筆六十六部欲書之第六

   奉納丹波国安国寺所祈之意趣者為

   天下泰平国土安全特奉祈征夷大将軍武運長久

   次所願当家子孫繁栄者也

    大永五年六月   沙弥道永(高国)

                 (安国寺文書)

とあるように、足利氏帰依の安国寺に大乗妙典を納め、将軍家の武運長久と高国家の子孫繁昌を祈ったりしている。なお、当時天田郡中央部で勢力のあった猪崎城主塩見氏一族も高国方で、波多野方との合戦に手柄をたて、高国方よりもらった感状が何通か塩見家に伝えられている。

 赤井の乱 波多野・柳本方も丹波一国を味方につけるため、各方面に行動を起こした。何鹿郡においても上杉荘内にある施福寺や物部城主上原氏の菩提寺高屋寺が大永六年兵火にかかっているのは、以前より高国方であった何鹿の土豪たちが波多野方に対して抵抗したからではなかろうか。大永の争乱によって焼かれた記録のあるものに、上林荘君尾山光明寺および善福寺がある。

 在地領主として勢力をもっていた上林氏は、上林地域の領家光明寺を中心に、土豪中嶋・長野・福井らの一族とともに抗戦したものと見え、天文二年光明寺の「再建勧進帳」に、

   「大永七年丁亥霜月上旬□□都鄙変乱軍勢乱入之刻本堂法華堂常行堂鎮守拝殿三重塔婆行者堂鐘楼並房舎以下悉昇一行之煙」

とあり、光明寺の山上山下に七二坊あったという伽藍堂宇も山門だけを残して焼き払われてしまったようすを記している。光明寺の西からの参道にあった阿弥陀峠の阿弥陀堂が焼かれたことは地元に伝承として残っている。善福寺が焼き打ちされたことは「善福寺縁起」に、

  「大永年中赤井兵乱の放火にかかり伽藍坊舎悉焼失」

とあり、また現宝蔵寺蔵多聞天堂「銘棟辞」によると、

  「夫尋当村多聞天濫觴引地山密場観音之脇士也 于然昔年赤井罹兵火伽藍矢矣」

とあって、多聞天堂も焼かれたとしている。善福寺も多聞天堂も同一地域にあり、いずれも大永の兵火を赤井の乱と呼んでいる。赤井氏は波多野方の氷上郡の豪族であり、赤井氏の一族が上林方面を襲撃したものであろう。その後赤井氏は天田・何鹿に勢力を伸ばしたものとみえ、天文八年(一五三九)赤井忠家が高津観音寺に臨時課役等、免除の下知状を与えており、また永禄年間には時家が次の下知状を渡辺氏に与えている。

   上林庄下村之内           上林下村内未包

   久元番 同佃分           番 武吉番 上坂

   等事 父遠江守方ニ         田分等事 対父

   令契約候条 以其          遠江守忠家以御

   筋目申合候間            折紙被申付置候

   如先々全可有領           事不可有相違候

   知者也 仍状如件          代官職等儀無異儀

   永禄五               候条公用分被取立

    九月七日 (赤井)時家(花押)  全可有領知者也 仍

   十倉九郎左衛門入道殿        状如件

                     永禄八

                      卯月廿八日(赤井)時家(花押)

                        十倉九郎左衛門人道殿

 時家は花押の特徴からみて赤井時家であることは確かであり、十倉九郎左衛門は、このころ上林十倉で勢力をもっていた渡辺氏である。「全て領知有るべきものなり」としているところは、赤井氏の支配がうかがえるもので、「丹波史年表」の永禄七年の項に、「当時信長 赤井忠家に氷上 天田 何鹿三郡を領せしむ」とあるのと符合する。赤井忠家の名は時家の父と孫にあり、天文七年文書の忠家は時家の父、永禄七年の忠家は孫であると思われる。

 内藤氏の進出 丹波国では大永六年以来、波多野稙通が多紀郡の八上城にあって国主を称し、次いで晴通・秀治と三代つづいて丹波の統一に乗り出していたが、それに対抗して永禄のころには、丹波の守護細川氏の被官であり丹波守護代であった八木城主の内藤氏が、綾部・福知山地方に進出して丹波征覇戦に加わった。こうして丹波各地で土豪が勢力を争い、提携攻防をくりかえす複雑な乱戦期を迎えるわけである。

 『籾井家日記』によれば、波多野氏は丹波の国内各要地に七頭および先鋒衆を配置し、綾部城には江田兵庫頭行範が永禄の初め居城して綾部盆地を支配したとしている。内藤氏はそれより前、亨禄年間(一五二八 一五三一)小畑城に重臣波々伯部伊勢守を遣わし(横山硯)細川高国に一味させていたが、永禄元年(一五五八)には鬼ケ城に山城を築いて一族を配し、福知山盆地を制圧しようとした。また、綾部の江田氏・位田の荻野氏・栗の大槻氏・高津の大槻氏らの土豪のねらう綾部・栗村の沃地を掌握するため、大島の鴻ケ嶽に城を築いて同族の内藤日向守正綱を遣わしている。(上田氏系図)

 このようにして内藤氏・波多野氏・地元土豪達の勢力は三つ巴となって奥丹波の何鹿郡・天田郡で勢力争いをくり返したようである。すなわち永禄三年には丹波の土豪衆が鬼ケ城を攻めて内藤側を敗走させ、(家懐記)永禄七年には波多野方の黒井城主赤井忠家が猪崎において内藤氏と戦い、(赤井系図)永禄八年には赤井忠家の叔父赤井直正が福知山の横山城を攻めて敗れるなど、福知山を中心にした乱戦がつづいた。

 東栗村城山軍記 かつて延徳年間(一四八九 一四九一)守護代上原豊前守に反し、荻野氏とともに位田城に拠った大槻氏は、上原氏との抗争をくり返し、しだいに位田・栗村方面に地盤を固め、永禄年間には栗村に一尾城(栗城)を築き、在地領主として、弟の大畠の丸山城主大槻山城守遂重(城山軍記)と力を合わせて強力な存在となっていた。現在残された一尾城趾の規模容姿を見ると、戦国時代の山城の代表的なもので、城主の実力をうかがい知ることができる。

 伝承を記した「東栗村城山軍記」によると永禄三年(一五六〇)三月、若狭高浜の城主逸見駿河守宗近が丹波を従えようと軍勢五千余騎をひきいて何鹿郡に攻め入って来た。田辺より発して上林十倉の渡辺内膳道春を降し、ついで山家の和久左衛門丞時宗を降してここに一泊した。ついで綾部を経て大島から由良川を渡り、小貝・館を迂回して沢野ケ原に陣した。あくる三月二十日、一尾城主大槻佐渡守時春の軍とはげしく戦い、一時は大槻方の敗色が濃かったが、急を聞いてかけつけた大槻氏の客将村上蜂之助のめざましい働きにより若狭軍は敗退したとなっている。

 逸見駿河守は若狭の守護武田氏の一族であり、重代の老職である。駿河守は丹後へも度々侵入し、志楽庄の設楽五郎左衛門尉を破って市場城を奪ったり、天正年間西大浦の蛇島城を占拠したりしており、子孫は田辺に住みついて商家となったと伝えている。

◎挿図【足利氏系図】198p

◎挿図【細川氏系図】199p

◎写真【道永(細川高国)納経願文案(安国寺文書)200p

◎写真【鴻ケ嶽】203p

◎写真【一尾城趾】204p

 

 

 

      第四章 明智光秀の丹波平定『上巻206p-217p

 

    第一節 明智軍の丹波侵入(206p-211p)

 

 波多野氏 光秀の丹波攻略に際し、最後まで抵抗したのは丹波の豪族波多野氏である。波多野氏は藤原秀郷の後裔で、秀郷七世の孫経秀が源頼義に従って陸奥に戦って功あり、相模国波多野本庄に居住したので波多野を称したという。一説に「丹波氏族日下部流因幡八上郡田公民の族なるべし」(姓氏家系辞書)とも云われている。

 十二世義重の時、六波羅評定衆となり、領国越前寺田郡に道元禅師を請じ、寛元二年(一二四四)永平寺を創建したという。十四世義基に至り、伯耆に移り、伯耆波多野家を立て、伯耆・因幡・美作三国に勢力を持った。子経基は弟行秀(山名氏幸の子)に伯耆を譲り、自ら丹波多紀郡に進み、本庄波多野家(丹波波多野家)を興した。(波多野系図)経基の子稙通は幕府の評定衆ともなり、大永六年(一五二六)自立して国主と号し八上城を根拠とした。(丹波史年表)また摂津守護代能勢氏より妻を入れ、北摂津方面にも勢力をのばした。子晴通も幕府評定衆となり、いよいよ八上城を固め多紀郡を中心に丹波最強の武将となった。一方伯耆の波多野氏は、行秀の孫宗高の代に至って毛利氏と同盟を結び、丹波に移って氷上郡に入り、氷上城を根拠地とした。これを西波多野という。しかも、本庄波多野家の晴通に子がなかったので、西波多野家の一門、宗高の従弟秀治に宗家を絶がせ、両波多野が一体となって丹波の経略に当たった。

 信長の戦略 織田信長は永禄二年京都に上り将軍義輝に謁(えつ)し、戦国の英雄がひとしく望んでいた上京を果たした。それより地の利とすぐれた軍事的才能を生かして急速に勢力を伸ばしていった。永禄三年には桶狭間の戦いで東海の雄今川義元を破り、つづいて美濃に侵入して斉藤氏を押え、永禄十一年ころには近畿一帯に兵をすすめた。そのころから使用した「天下布武」の印章にその大望を表現している。

 信長は元亀より天正のはじめにかけて、越前の朝倉氏・近江の浅井氏を滅ぼし、比叡山を焼き払い、伊勢・摂津・河内にそれぞれ有力な部将を遣わして攻略を進めたが、丹波は早くから進攻の意図を持ちながら実効があがらなかった。すなわち多紀郡八上城に拠った波多野秀治が、八木城内藤氏・黒井城の赤井氏、その他久下・波々伯部・荒木・荻野らの土豪と提携し、他方播磨の三木城主別所長治と姻戚関係をもち、中国の雄、毛利氏と誼を通じていたからである。

 元亀の侵入 丹波で目ざす強豪は多紀郡八上城の波多野氏であり、氷上郡黒井城の赤井氏であった。そのため織田方は口丹波と奥郡天田・何鹿の地方に前進基地を設ける必要があったものとみえ、本格的な丹波攻略の前、元亀三年(一五七二)にまず上林地方に侵入を始めたもようである。

 上林地方には南北朝時代より上林氏がいたが、信長方の軍(高市豊後守であろう)の侵略は防ぎようもなく、上林氏方の拠点である君尾山光明寺は攻め落とされてしまった。このとき、桑田郡の野々村庄を本拠として同郡・若狭・何鹿郡上林地方等七か所を領有していた今宮城主川勝豊前守光照が、鶴ケ岡・洞峠を越えて急いで来援に駆けつけたが、光秀軍に敗れて今宮城へ退き自刃したとの伝承がある。(北桑田郡誌)若狭は元亀元年、信長の部将丹波長秀によって征服され、守護武田氏の領土の半分は取り上げられて長秀に与えられていたから、上林谷侵入は若狭から入ったものであろう。

 高田豊後守は上林氏を押え、上林を制した勢いで綾部盆地に進攻し、位田城の荻野肥前守を敗滅させ、進んで栗城の大槻氏を攻めたとみえ、栗城下の沢神社が兵火にかかっている。(沢神社社伝)

 ここに哀れをとどめたのは物部城主上原右衛門少輔である。彼は永禄十一年より信長に加担し、やがて信長の丹波攻略の先鋒となるべき立場にあってしきりに付近の制圧につとめていた。この活動のため元亀二年織田軍の丹波侵入の前年に、波多野方の黒井城主赤井直正に攻め滅ばされてしまった。そのあとは赤井氏の一族が物部に入って治めていたようで、後にこの地に住みついて帰農した者もある。

 天正三年の侵入 明智光秀は細川藤孝とともに丹波攻略を命じられ、天正三年(一五七五)二月、大江山(老ノ坂)を越えて丹波に入った。亀山城主内藤忠行は手勢を率いて亀山城に迎えたので、並河・四王天・中沢など丹波の土豪達の多くは降伏した。しかし久下・釈迦牟尼仏(みくるべ)・河田などは光秀につくをいさぎよしとせず、鬼ケ城と高見城(柏原の西方)に拠って抵抗した。また黒井城の赤井直正も従わず、八上城の波多野氏は向背を明らかにしていなかったので、光秀は和議を結ぶことと武力でもって討滅することの二面作戦をとった。波多野方も信長方の力を知っているので策をもってするより他ないと考え、「赤井直正ひとり和平を拒むので武力を借りたい」と申し入れた。それにより天正三年九月、光秀は自ら軍を率いて柏原の八幡山に陣し、波多野方と共に黒井城を攻めた。ところが城中から赤井方が打って出ると波多野方はこれに応じて光秀方を攻めたてたので、不意をつかれた光秀方は敗れ、光秀は北桑田から近江の坂本城へ逃げ帰った。このときに亀山城も秀治め弟秀尚により奪いかえされた。そこで同年冬、光秀は美濃の野武士三千余を募って老ノ坂より丹波に攻め入り亀山城を回復しようとしたが、赤井直正の来襲をうけて再び敗退した。

 和藤合戦 光秀の黒井城・亀山城攻略の失敗は丹波土豪達の士気を高からしめ、領地を広める活動をはじめさせた。八木城主内藤備前守宗勝は天正四年、天田・何鹿に進出した。宗勝はまず福知山・綾部方面を討ち従えようと高津に入ったようである。天正四年二月、下高津の観音寺が兵火にかかり伽藍・古文書を焼失した(福知山名所)とあるから、おそらく高津の城主大槻氏を攻めたのであろう。つづいて栗城を押えて軍勢をととのえた内藤氏は、同年四月大原に本陣をうつして山家をうかがった。山家の和久氏は山家・和知・口上林を押えていた豪族であり、多くの土豪が内藤氏に人質を送って服しているのに反し、あくまで降伏せず備えを固めていた。

 この内藤氏と和久氏の戦いが「和藤合戦」とか「禅定庵の戦」とかよばれるもので、「陰徳太平記」「白波瀬記」「和藤戦記」などに記されている。これら戦記物により、戦いの年が永禄六年とも天正四年とも記されて年代の差があり、またいずれも誇張された記述があるが、当時の状況の一半を伝えていると思われる。それらによれば、内藤備前守は大原を発し三千余騎の大軍を率いて下原へ進攻してきた。和久氏の宿将白波瀬肥前守忠次(忠義と記したものもある)は家来十六人と郷民数百人をもってこれに対したが、数において抗戦不可能なことを知り、下原の禅定庵に誘って和談すると見せかけ、はげしい風雨を利用し闇にまぎれて急襲した。雨にぬれ道に疲れ、地理不案内の内藤勢はさんざんに攻めたてられてなすすべもなく、宗勝は八木城をさして落ちていく途中、下原の山中で白波瀬側に討たれてしまった。いまそこを備州が尾と呼んでいる。時に天正四年八月四日であったという。(内藤丹波年代記)

 このとき十倉城主渡辺内膳友綱が由良川の急流に独り馬を乗り入れ、難なく渡り切って白波瀬を助け、水馬の名をあげたことが伝えられている。

 丹波攻略一進一退 天正四年六月、さきに奪回された亀山城を取りもどすため、明智光秀は細川藤孝・滝川一益・筒井順慶ら一万二千の兵を率いて殺到した。城将波多野秀尚は防戦およばず、城をすてて西本梅の八田城に逃れた。しかし八月には氷上城主波多野宗長が兵五千を率いて来援し、進んで亀山城を奪回したので、光秀軍は京都粟田口に敗退した。

 天正五年十月、波多野秀治・同宗長が但馬竹田の赤松氏を討つため本国を離れていることを知った光秀は、兵五千五百を率いて亀山城に波多野秀尚を攻めて落とした。六年三月には援軍を得て進んで八上城にせまったが、天険を利した城を一気に攻め立てるのは犠牲が大きいことを考え、兵糧攻めの作戦をたてた。そのため城のある朝路山のふもと三里四方に堀をつくり、塀や柵、逆茂木をたてて城兵の出入りを止め、またそのまわりに兵の宿舎をつくって長囲の陣をしいた。その間、兵をかえして園部城の荒木氏綱を降し、付近の諸城を落としていった。

 ついで天正六年十二月、前に失敗した黒井城の攻撃を開始した。すなわち豪将赤井直正がすでに没し、弟幸家が但馬出陣で留守であることを知って、丹後攻略中の一族の明智光春を急ぎ呼び返し、四千五百の軍勢を投入して決戦に出た。赤井氏側は二千百人の兵力で反撃に出たが、光秀側の作戦にはばまれて敗戦かとみえたが、但馬から急ぎ帰城した幸家の指揮により、地雷を使っての新戦法に出たので光秀軍は混乱し、再び敗れて多紀郡の本目城に逃れた。

 

    第二節 明智光秀の丹波平定(211p-217p)

 

 天正七年の侵入 天正七年になり波多野秀治・宗長らは相謀り、次に来るべき信長の全力投入の攻略をさけるため、偽って和議を申し入れ、あわよくば信長父子・光秀・秀吉などを殺そうと計画したが、波多野の部将小野木吉澄などの密告によって信長の知るところとなった。信長は一挙に波多野氏を征するため同年五月、山城方面より東丹波は明智光秀、但馬方面より西丹波は羽柴秀長、摂津播磨方面より南丹波は丹羽長秀を将として侵入させた。これを迎えた波多野秀治は丹波の土豪たちとともに防備を堅くして抗戦したので、織田軍は至る所で焼き打ちを行い、丹波は騒然としてあげて破壊と兵火の山野と変わっていった。

 五月四日、羽柴秀長は兵四千を率いて但馬方面より氷上郡に入り、長沢氏・久下氏らを制圧して福知山の鬼ケ城を抜き、綾部城を陥れて城主江田行範を本国氷上郡に敗走させ、秀長は後を追って氷上郡へ追撃していった。

 丹羽長秀は摂津方面の攻略に従っていたが、信長の命によって南方より丹波に入り、沿道の諸城を落としながら五月中旬氷上郡久下城(玉巻城)を囲んだ。西波多野家の宗長は一子宗貞をして急援させたが、力戦ついに敗れ、城主久下重治・波多野宗貞は自害し、江田行範は討ち死した。光秀は本目城に本陣をおき、五月二十一日には福住城を落とし、城主籾井教業は自刃した。

 一方波多野宗長は輩下諸城に対し防戦を督励したが、攻撃の大軍に押されて本城氷上城にたてこもった。丹羽長秀はこれを囲んで降服をすすめたが宗長は拒絶し、ついに一族老臣とともに自刃して相果て、西波多野家は滅亡した。このとき、播磨攻略中の秀吉から来援を求めてきたので、丹羽長秀・羽柴秀長は後を光秀にまかせて転進していった。

 ついで光秀は、波多野の有力な武将である八木城の内藤有勝を攻めている。口丹波をはじめ何鹿・天田方面になお勢力を保っていた内藤氏は、最後の一戦と死力をつくして戦ったが、内通者のため城に火をかけられて炎上、天正七年六月、ついに城主以下討ち死して落城となった。このとき内藤の一門土佐守正勝は、何鹿の鴻ケ嶽か八田城をねじろとしようとして敵陣を突破し、山家あたりまで落ちのびたが、一行別れ別れになって自刃するものもあり、(八木町誌)正勝は内藤氏の支城大島の鴻ケ嶽に入り、ここで没した。(上田系図)

 八上城攻略 光秀は一年三か月にわたり八上城を包囲していたがおとしいれることができず、城中もまた食糧がほとんど尽き果ててしまった。そこで光秀は一策を案じ、本目城の野々口西蔵院を使者として秀治に降服をすすめ、人質として光秀の老母(実は光秀の叔母ともいう)を送った。秀治・秀尚の兄弟はこれを受け入れ、六月二日主徒一五人が本目城に赴いて光秀と会見した。光秀は兄弟に上洛して信長に目通りすることをすすめたが、兄弟は時機尚早として承知せず帰ろうとした。ところがにわかに伏兵がおこり、秀治は傷つき、秀尚とともに捕えられて安土へ送られた。途中秀治は傷が重くなり、

   よはりける心の闇に迷はねば いざ物見せん後の世にこそ

と詠んで死亡した。安土に着いた秀尚は信長から降伏を強いられたが、頑として応ぜず、慈恩寺で従者とともに潔く自刃した。(丹波人物誌)

 秀治兄弟の悲報を聞いた弟の二階堂秀香以下八上城の将士は光秀の策謀を怒り、八月、人質として城中にあった光秀の老母を殺し、城を出て光秀軍と戦い、玉砕して波多野氏はついに滅亡した。

 天田・何鹿の平定 八上城・氷上城の波多野氏の両拠点は落ち、波多野重代の武将たちも多く亡んだが、まだ屈服せず抵抗をつづけていた土豪もあった。黒井城の赤井氏をはじめ、山家に和久氏、横山城・猪崎城の塩見一族であった。天正七年七月、光秀は口丹波の宇津城主宇津筑前守重元を追い、その勢いをかって八月、天田郡を押えていた塩見一族の攻略にかかった。

 天正七年八月二十日、明智の部将四王天但馬守政孝は林半四郎とともに横山城(後の福知山城)に押し寄せた。城主横山信房は弟信勝と防戦したが衆寡敵せず自刃して相果て、一族のよる茶臼山の山田城(和久利明)も兵火に敗れた。猪崎城の塩見利勝はこれを見て、勝ちめなしと城に火をつけ逃れる途中、川北のあたりで林半四郎の追撃をうけて討ち死した。釈迦牢尼仏靱負(みくるべゆきえ)らも討たれ福知山地方は全く平定された。(丹波史年表)

 何鹿郡には、光秀に服従しない土豪がまだ残っていた。その一人は山家城主の和久左衛門佐である。左衛門佐はさきに八木城主内藤備前守を敗走させて勇名をはせ、地の利を得てその勢いはあなどりがたいものがあった。光秀軍は福知山を平定すると山家に進撃してきたので左衛門佐も降服したが、山家城を破却するとの条件で許されたようである。しかし城域内に照福寺があったので、城ではない、寺であると称して城郭を取り払わなかったため、天正八年(一五八〇)六月二十日、光秀は兵をやって攻め落とした。このとき左衛門佐はいずれともなく逃れたため、光秀はあくまで和久を探し出して捕えようと和知の豪族出野左衛門助と片山兵内にその旨を下知している。(御霊神社文書)

 上林地方はすでに元亀・天正のころ上林氏を押えて一応光秀の支配に入っていたが、奥上林地方の土豪達はへき遠の山間地を利用して光秀の意にそわない動向が多かったとみえ、天正七年十月、睦寄町の金剛寺が兵火にかかって焼き打ちをうけている。

 さらに光秀は、黒井城に拠ってあくまで降伏しない赤井一族を滅ぼすため、八月九日、多紀・氷上の郡境に近い金山に軍を進めた。前二回の黒井攻略の失敗があるので慎重な計画をたて、ようやく同月十四日、黒井城の南方柏原の八幡山に陣をしいた。寄せ手五千七百、赤井氏側は丹波最後のとりでとして、千七、八百を結集してこれに当った。こうして数日間両軍は柏原の平野に死闘をくりかえしたが、赤井側は各所に敗れ、八月十九日黒井城は炎上落城した。城将幸家は城主忠家とともにいったんのがれ、播磨路より京都に隠れたが追跡きびしく、ついに男山八幡宮において自刃して果てた。忠家はさらにのがれて諸国を流浪したが、慶長十年伏見において没したという。(氷上郡誌)黒井城には城代として斉藤内蔵助利三を置いた。

 光秀は十月十八日福知山に入り、四王天政孝を置いてこの地方を守らせた。二十四日には安土に帰り丹波平定を信長に報告し、志々羅百端を献じた。

 福知山城を築く 光秀は丹波平定の功によって丹波二十九万石に封じられたので、亀山と福知山に居城を築いて国土経営に当たった。福知山市天寧寺に残っている「御領主歴代図記」「福知山領伝記」『横山硯』などによると、光秀は丹波を平定すると旧横山城の跡に新たに縄張りをし、家臣明智左馬頭(三宅弥半次)をして築城させた。築城については、近郷近在の寺院を壊したり、墓石を回収して工事の資材に使ったという伝承が天田・何鹿の各地に伝えられているが、それを証拠づけると思われる記録に「丹波天田郡土産物書写」(福知山市誌所載)がある。

   「横山に明智城を築に付……中略……其内弥々横山城屋敷取此三里計り間迄も村々墓所石塔皆々取て天守台に石垣につむ 又大石は山々にて掘出して引取近隣の寺々堂塔皆引崩して引取是を建て城とす 又同国何鹿郡栗村の上野にて此所七堂伽藍の寺有 同郡志賀の里に七不思議有 毎年正月元旦より七日迄の内 藤躑躅花忍び筍茗荷雫松志運の桜七不思議有る成 此雫(しずく)松栗村の寺の棟木と成て有し時に其寺横山へ取り城とす 是に依て今は福知山城の棟木成也 又牧村大谷観音寺も取て建と云ふ弥々城普請成就して福知山と号す」

 現在綾部地方に残っている安土桃山時代の形式と思われる石造の厨子形墓碑は、墓石を取り上げた代わりとして光秀が下げ渡したものとの伝承があり、福知山築城の事情を伝えるものと思われる。実際、福知山城の石垣には多くの宝篋印塔の基礎や、大きな五輪塔の地輪などが露出している。特に志賀の七不思議の雫松が天守閣の棟木に使用されたことは、民間信仰の本体を寺院から取り上げたもので、戦国大名の強引なやり方を物語るものである。明治初年天主閣解体のとき、棟木にその由が記してあったので志賀郷村へ引き取り方を申し入れてきたが、多額の運送費を使って取り返すことはないとそのままになったという。現在雫松の皮の一部というものが伝えられているが、厚さが一〇センチメートルほどもある実に巨大で見事な松皮である。

 戦国時代の終末 丹波はこうして光秀に平定された。土豪達はみな光秀の兵威に服し、光秀の家臣が代官として要地に置かれ、統治に当たった。

 天正十年六月二日、光秀は信長を本能寺に攻めて自害させ天下を取ったかに見えたが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、六月十四日山城の小栗栖で土民に殺され、三日天下の悲運に終わった。このとき光秀に従った郷土の豪族では、志賀一族の政綱が山崎で討ち死し、味方についた高津城の大槻氏も落城して滅んだ。

 光秀に代わって秀吉が丹波を領して検地を行い、戦国大名制から近世大名制へ移行していくにつれ、土豪は在地領主の地位を奪われ、代官支配が実施された。最後まで豪族として生き残ろうと努めた野田の白ケ城主梅原弾正忠も関ケ原役に西軍に味方して敗れ、山を下って農民となった。上林氏は宇治へ移り、十倉渡辺氏も衰微していった。大阪夏の陣に豊臣秀頼方について家を再興しようとして夢破れ、討ち死して家系を断絶した八田城主大槻清勝のことも同族間に伝えられている。

 このようにして戦国時代に活躍した丹波の土豪達は天下統一の権力争いのあらしの中で、一人も大名にも旗本にもならなかった。そして命あるものは農民となり、中には本家筋が近世の庄屋・村役人となって村落生活の中心的な役割りを受け持ったものも多かった。

◎写真【八上城趾】212p

◎写真【明智光秀下知状(御霊神社文書)214p

◎写真【雫松の皮】216p

 

 

 

      第五章 中世の村落『上巻218p-228p

 

    第一節 荘園の村(218p-221p)

 

 律令による班田制の中で、口分田を班け与えられた農民がしだいに私有権をつよめてそれを名田とし、また荘園内の有力農民がその耕作権を強めて私有としていったことは古代編で述べたところである。

 これらの名はしだいに変質しながらも国衙領・荘園の徴税・課役の単位として中世を通じて残されていき、戦国大名たちによって領地の一円支配が行われる中で解体していったものである。

 何鹿郡で記録にあらわれる名(みょう)は次の通りである。

   高槻保内守清名      文保元(一三一七)

                建武五(一三三八)     安国寺文書

   八田郷上村内貞行名    建武三(一三三六)       〃

   西股の理正 六反     建武三            〃

      番田 三反

   八田郷次郎丸       暦応元(一三三八)       〃

   八田郷次郎丸ノ内鳥居野  康永三(一三四四)

   八田郷上村内

   兼里名内正守田 壱町三反二十五代 建武元(一三三四) 岩王寺文書

   貞遠名内    田陸反二十五代

   国豊

   吉行両名         貞和五(一三四九)     楞厳寺文書

このほかに上杉家文書に、

   八田本郷内四名事     応永七(一四〇〇)

という記事があるが、名(みよう)の名()は出てきていない。

 「岩王寺文書」に出てくる貞遠名・兼里名は、上八田町佐里・七百石町金里として現在の小字名に残されている。これから考えて、現地名で名の通称と思われるものはいくつかある。その二、三の例をあげると、

  井倉町―有行  小畑町―吉国  今田町―長源名

 これらの名の広さについては、「岩王寺文書」に「兼里名内 一町三反二十五代 貞遠名内 六反二十五代」とあることから、一町以上あったものと思われる。

 名は寄進や売買がなされたもので、「安国寺文書」には、文保元年(一三一七)守清名田畠を比丘尼心会から譲り受けた源資平は、建武五年(一三三八)に守清名主職を光福寺(安国寺)に譲り渡している。これからみて建武五年ころの守清名は名主職と作職とに分かれていたものと考えられる。

 一四世紀中ごろまでの文書にでてくる村名は次の通りである。

  矢田郷東中村         仁平二年(一一五二)東光院写経奥書

  丹波国高槻保内守清名     文保元年(一三一七)安国寺文書

  八田郷上村          建武元年(二三三四)岩王寺文書

  吾雀荘中村・西方村・向田村  康永三年(一三四四)妙法院文書

 高槻保における保というのは、中世にあらわれてくる郷の下の行政単位としての保であって、国衙領にみられるものである。何鹿郡では高槻保と西ノ保の二か所にだけである。「妙法院文書」には、「吾雀荘者 為三箇村之地」とあって、中村・西方村・向田村の名が記されている。この荘の領域はもとの志賀郷村全域にわたっていると思われるから、この地域が一四世紀中ごろには右の三か村としてまとめられていたと考えられる。

 「上杉家文書」によると将軍義満は、応永五年(一三九八)に八田郷内本郷を上杉憲基に宛行い、応永七年には、「八月郷は仁木義員に宛行うけれども 八田本郷内四名を上杉憲基に宛行う」としている。さらに幕府は応永三十三年(一四二六)に八田郷上村を憲基の子憲実に与え、憲実は文安四年(一四四七)に八田本郷と本郷内四名を子房顕に譲っている。この文書でみる限り、八田郷は広い範囲でその中に上村・本郷・本郷内四名などがあった。

 ここにあらわれた郷や村は、所領として宛行われたり譲渡されたりしており、徴税の単位として捉えられていることがわかる。名の内容をしめすと思われるものに次の文書がある。

    近江守行秀譲状

   丹波国何鹿郡吾雀庄之内山尾 永代譲渡田畠山林等並下人等事 一円ニ譲渡上者他之妨不可有候 但此之内田弐段者 仲兵衛尉ニ永代譲渡所也 万一余之子供於有違乱之儀者 仲兵衛ニ譲と言共 取はなし知行あるへく候 仍為後日永代譲渡之状 如件

     永正九年(一五一二)弐月十日  近江守行秀(花押)

    志賀八郎右衛門尉殿

                       (志賀家文書)

 この状によれば、田畠・山林とともに下人までが譲渡されており、山尾は近江守行秀の領有する名であると思われる。下人たちは名主の自作地の農耕に従い、独立した農民として成長していない状態をしめしているものと思われる。

 このように中世の何鹿郡において郷・村・保・名が集落名をあらわすものとして出てくるが、その村落構造についてはよくわかっていない。

写真【暹快奉書 守清名主職の記事(安国寺文書)220p

 

    第二節 中世の村落(222p-225p)

 

 何鹿郡の中世村落の名が記されているのは寛正二年(一四六一)九月十日の何鹿郡代広戸九郎左衛門尉の下知状である。この下知状は安国寺の寺堂再興のため国中に家別拾文宛の奉加を命じたものである。村名の前に、

   「寺庵諸政所不残可有御沙汰候」

とあり、また後文に「無沙汰候在所をハ此折紙しるさせ候て可有注進候由被仰下候」と書かれて、一村も残らず奉加を命じているから、郡内の村名は全部記されているものと考えられる。村名は次第不同として次の通り記されている。

   上林上下村   相国寺領

   同 上下村   仁木殿御領

   上杉村     於与記

   高槻      八田上村

   八田下村    吉美東西

   原村      山家

   上位田     下位田

   上嶋      下嶋

   漢部      上高津

   下高津     報恩寺

   小幡      新庄

   西保      赤目坂

   物部郷     はさうち

   吾雀      同西方

   栗村東西

 この村名を『倭名抄』(九三〇代)の郷と、元禄十三年(一七〇〇)の村高付帳に記された村と対比すると次表()の通りになる。

 この表で、古代の郷から中世・近世の村落へと地域的なつながりがみとめられるが、一、二説明のつけにくいところもある。寛正の上位田・下位田は、一〇世紀の文井郷をあてればうまくつながるが、ここに比定する根拠がたしかでないところに難点がある。寛正の文書に私市の名が出ていないが、報恩寺の中に含まれていると考えるのは無理があるようである。黒谷村の名が出ていないが、於与岐に含めることはむずかしい。

 漢部と原村については前に述べたところである。西保・赤目坂が小村ながら一村として記されているところは、高槻保とともに国衙領であったためかと思われる。

 寛正の村名には、上林地域だけが別の形で記されているので、それについて考えてみたい。

◎写真【広戸九郎左衛門尉下知状(安国寺文書)222p

◎挿図【何鹿郡郷村名の変遷】223p-225p

 

    第三節 上林の村々(226p-228p)

 

 上林は上林上下村とし、相国寺領・仁木殿御領として二つの大まとめにして記されている。これは郡内の他地域と異なり小村落に分かれていて、大村にまとめられていなかったからだと思われる。

 元禄十三年の村高をみても、辻村五一石、水梨五七石、於見谷二三五石、栃七二石、武吉一六二石、石橋一八五石、市之瀬一〇〇石など、一〇〇石以下や二〇〇石前後で、特に大きい大町でも三三三石である。

 綾部盆地の村では、綾部村三二七六石、大嶋村一六一七石、高津村一〇七六石、栗村三四七一石など、みな一村で一〇〇〇石を越えた村高であるのに比して、いかにも小村である。

 こうした小村が中世末期に成立していたことは、天文二年(一五三三)にはじまる君尾山光明寺の「勧進奉加帳」にもみられるところである。この奉加帳は前に述べたように、大永七年(一五二七)に戦火に焼かれた光明寺の再建のために勧進した時のもので、寄進者の地域は上林全域と和知谷におよんでいる。天文二、三年の記事を見ると次のように記されている。

   五百文  殿村次良左衛門

   米四斗  志古田五良衛門後家

   米四斗  同村 三良五良

   三拾疋  強木 政所屋

   三拾疋  川原兵衛

この他にも村名があり、元禄十三年に記された村名はすべて出ている。さらに注目すべきは、満野村・尾見村・田谷村は個人寄進でなく一村としての寄進であることである。これは小村ながら村が共同体としてまとまっていたことをしめすものである。この寄進の形をとっていない他の村々も共同体としての惣村が形成されていたものと考えられる。

 上林地域がこのように小村分立になったのは、上林川の流域で小さな支流が流入する扇状地や台地を中心に形成された村が多く、灌漑用水を中心にまとまったからだと考えられる。八田川や犀川の流域地域でも垣内的な小村は多いが、元禄十三年には本村と枝付という形で捉えられているが、上林地域では小村がそのまま一村の形で記載されている。大河のほとりで灌漑用水をとるにも大きな井堰を必要とし、またその維持管理にも多くの労働力を要し、且、広い水田をうるおすことができるところは大村になったものである。

 もともと郷村は、灌漑・入会・祭祀など、農民の生産と再生産にとって不可欠の共同体であり、また封建領主が地代を収取する単位となったものである。だから村の地形的な制約と、当時の水利灌漑の技術の限界とによってこうした小村が数多くできたものと思われる。

 この形の農村は散居型村落とよばれるもので、農業経営も名主ないしそのグループを単位とする家父長的家族共同体の構成をもつ複数の戸によって行われるとされている。(1)

 近世初期に、上林地域では一村が数名の大地主によって支配されており、貞享・元禄ごろから隷属農民が百姓株を分けられて独立して自営農民となったといわれる。(2)

 これは上記のような中世の村落構造をもとにして発展したものと考えられる。

 なお上林地域には、「番」という村の支配形態があったことを次の文書がしめしている。

   伺事記録曰 天文八年(一五三九)五月廿七日 相国寺領丹波国何鹿郡上林内谷忠番事 為寺家代官職之儀 被申合仁木右馬頭之段 云云 (荘園志料上)

前に引用した「阪根家文書」には、

   久元番 同佃分 末包番 武吉番 上坂田分

の名がある。これらの番は名と同じように、荘園領主が公事・課役の単位として作り出したものといわれる。武吉・佃は現在の武吉町・佃町であるし、谷忠番は忠町のことと思われるが、久元番・末包番・上坂田分は現在どの地に比定するか不明である。

 中世末期において、共同体としての郷村が形成されていくにつれて、村落結合の中心になる神社が大きな役割をもち、その祭礼は盛大となった。この祭礼にはようやく民衆のものとなった芸能が奉納されるようになり、中世に起源をもつ芸能が綾部市内の神社に伝えられているが、それは郷村成立と時期を同じくしてはじめられたものであろう。

 (1) 永原慶二 「荘園制支配と中世村落」

 (2) 木下礼次「近世百姓株の成立と展開」社会経済史学 昭・三九・四、五合併号

 

 

 

      第六章 中世の文化『上巻229p-258p

 

    第一節 中世の文化と民衆(229p-231p)

 

 源平争乱の時代を経て鎌倉時代に入ると、深刻な社会的変動の中で、仏教が庶民の日常生活の中へ浸透していくようになった。この時期にすぐれた思想家である新仏教の創唱者たち、すなわち法然・親鸞・道元・日蓮などが武士や庶民を対象とした教えを説いて、戦にあけくれたり、生活に苦しむ武士や農民の心を救っていった。念仏やお題目を唱えるだけで救われる易行道といわれる安心の道が説かれ、民衆の生活に密着した仏教として広まっていった。しかし造寺造仏という大きな経費をともなうことは、やはり豪族の力によったことであろう。綾部市内には中世につくられた建造物・仏像が多く残され、しかも、すぐれた文化的価値をもつものがあることは、それを造るだけの経済力をもった在地勢力があったことや、地域の文化的水準をしめしているものといえよう。

 鎌倉時代の末ごろ、一三、四世紀のころになると、しだいに民衆が文化的ないとなみに参加するようになったものと思われ、その一つの例が赤国神社の所蔵「文の鳥」である。

 

 市指定文化財

   文の鳥 一体 鎌倉時代 銅製 高さ二一・五センチメートル 体長二二・〇センチメートル 赤国神社(館町)

 神輿の上にかざる鳥には鳳凰がよく用いられる。ここでは「文の鳥」とよばれ、鳥名ははっきりしないが鸕●{+}(ろじ)といって鵜のことであるらしい。銅板を曲げて、いくつかの部分を組み合わせて造られており、稚拙でひなびた感じのするものである。「文の鳥」の大きさから考えて、神輿もあまり大きなものでないように思われる。この鳥の背面に陰刻されている次の銘は歴史上貴重である。

 正和三甲刀(一三一四)九八日 下司 源光高

 刀は寅の略字で九八日は九月八日のことと考えられ、下司は荘宮の名である。栗村荘の荘官であり、地頭を兼ね、在地領主であった源光高が寄進したことをしめしている。この神輿をかついだのは荘民である農民であって、神輿をかつぐことによって神事に参加したものであろう。鎌倉末期に郷土の社に神輿があったことはおもしろいし、民衆生活や信仰を知る手がかりになるものであろう。

 このように鎌倉時代の末期から何鹿郡にも民衆の文化的ないとなみと参加が見られるようになり、室町時代の中期以後は信仰を中心に民衆の動きが多く見られるようになってくる。これら中世の文化財や文化的な動きについて述べてみよう。

◎写真【赤国神社 文の鳥】230p

 

    第二節 君尾山光明寺の文化財(231p-237p)

 

 国宝建造物

   仁王門 一棟 鎌倉時代 三門一戸 二重門 栩(とち)葺 君尾山光明寺(陸寄町君尾)

 君尾山光明寺は睦寄町の君尾山中腹、標高約四五〇メートルのところにある真言宗醍醐派の古刹である。寺伝によると推古天皇七年(五九九)に聖徳太子によって建立されたという。その後、役小角がこの地に修業し、延喜年中(九〇一〜九二二)に理源大師が真言道場を開き、寺領は上林全域におよび、坊舎の数は七二あって隆盛をきわめたという。のちに二三坊を八津合に移し、そこに寺町ができたが、大永七年(一五二七)十一月兵火にあい、仁王門だけを残して全山が焼失した。そこで天文二年に再建したが、そのときの勧進帳・奉加帳が残されて、当時の寄進の状況を記している。江戸時代には領主藤懸氏の援助を受け、現本堂は天保七年再建されたものである。

 この仁王門は綾部市唯一の国宝であり、建造物としては丹波丹後を通じてただ一つの国宝である。この門は昭和二十七年に解体修理をした際、上層背面の中央左柱の上部に、

   「宝治二年戌申」(一二四八)

の墨書銘を発見し、さらに一重天井板に転用されていた棟札に、仁治三年(一二四二)十二月に着工、建長五年(一二五三)九月に竣工したことが記されていて、建築時期が明らかになった。

 この門の平面は下層で七・三×四・二六メートル、三間一戸(柱間三、戸口一)で正面前方の両脇の間には低い床が張られ、仁王尊は一般の例と違って、後方の両脇の間に安置されている。これは珍しい例とされるが、舞鶴市の松尾寺仁王門も同様の形であるから、地方色ともいわれるところである。前方に床が張られているのは、仁王信仰により尊像を礼拝する場として使ったのではないかといわれている。

 斗栱(ときょう)は上・下層とも和様三手先で、いずれも尾棰付(おたるきつき)であり、下層天井は組入天井である。屋根は栩葺(とちぶき)といって珍しい葺き万である。厚さ一・五〜二・〇センチメートルの割り板を重ねて葺いたもので、薄い割板の柿葺(こけらぶき)と違った趣きのある極めて珍しいものである。全体的にみて、中世の数少ない和様系の二重門であることや、栩葺の珍しい屋根、そして全体の姿がすぐれていることなど、立派な建造物である。なお楔に、

   永正十三年三月十五日 戒順

の墨書があって、そのころ一部改修が行われたものと思われる。

 棟札墨書

   表

  (カンマン)   天下泰平国土安穏□□□□十方担越隆□□□始自仁治三年壬寅十二月廿日

    ●(梵字)   奉勤修不動護[以下不明   ]念誦[以下不明            ]

   裏    伽藍常住令法久住寺中繁昌一山諸徳本願建立至于建長五年□□九月口口

        山門西塔院住侶金剛仏子覚承阿闍[]

 市指定文化財

   君尾山光明寺再建奉加帳 一冊 室町時代 幅三二・五センチメート 長さ約七〇センチメート 君尾山光明寺

 大永七年(一五二七)の争乱で光明寺の仁王門を除く堂塔すべて焼失したので、天文二年(一五三三)上羽丹波守を大施主として再建したと寺伝にある。そのときの勧進帳ならびに奉加帳である。

 奉加帳は折本の形で、表に「晴国」(細川)の名と花押があり、中に天文二年にはじまり江戸中期までの寄進者の名が書かれているが、中心は天文・天正年中である。

 寄進者としては上林氏のほか、中嶋・角山・大志万・長野・福井・野々垣など、上林地域の在地豪族や地侍と思われる者の名がでており、君尾山の塔頭と思われる寺院の名もでている。地名も、上林を中心に和知にもおよび、中世末期の村名がでていて、近世村落の成立を考える手がかりとなるものである。寄進した財は、銭・柱・布・米などであり、当時の生活を知るための良い資料である。

 

 順礼札

 仁王門には、順礼・巡礼・三禅定などと書かれた木札が一〇枚あまり残されている。破損して文字のところが欠けたものもあるが、大体読めるのは次の八枚である。

 表

       永正六己巳 []善 泉吉

 ●(梵字) 西国三十三所観音順礼同行三人

       六月十八日 教圓 敬白

 裏

       永正六年己巳(一五〇九) 現世安穏[         ]

 ●(梵字) 具一切功徳慈眼祝衆生福秀聚[海無量是]故應頂礼

       三月十日出行 無[            ]

 長さ 312cm 幅  9.38.3cm 厚さ 1.10.9cm

(一四七五)

文明七年九月十二日    [

(一四八九)

長享三年己酉六月五日   三禅定 同行三人

(一四九一)

延徳三年七月七日     三禅定 同行四人

(一四九二)

延徳四年壬子七[   ]  三十三所順礼同行四人

                 当寺住侶不[

明應五年丙辰七月五日   三禅定 同行二人

明應七年犬午七月十一日  [        ]

年不明 八月二日     三十三所巡礼同行二人

 どの札も中央上部に梵字が記され、その下に三十三所順礼または三禅定とあり、両側に圓良房・得善・定琳房宗善などと僧名が記されている。年代は文明七年(一四七五)から永正六年(一五〇九)までの三五年間にわたっている。

 この札は、光明寺の住僧が修行のために西国三十三所の観音霊場を順拝し、あるいは富士山・白山・立山の三霊峰に入って修業し、帰山して寺に納めたものと思われる。「当寺住侶」という記名がそれを証している。この納め札からみて、一五、六世紀には君尾山に多くの憎がいて修行し、またいろいろな活動をしていたことが想像される。なお、南北朝時代の宝篋印塔があるが、それは金石文のところで述べる。

 

 西国三十三か所

 この木札に記された西国三十三か所観音巡礼について述べておきたい。

 観音霊場を巡拝する風習は、平安時代の後期から僧侶の修行のひとつとして行われはじめ、それが貴族社会に広まり、室町時代になると庶民の間にも広く行われるようになった。そうして特定の霊験あらたかな観音霊場が選ばれて、西国三十三か所の札所が定まるのは一五世紀のことといわれている。いまに伝えられ行われている西国三十三か所は、紀伊の都智山青岸渡寺にはじまり、近畿各地の霊場をめぐり、京都府下では亀岡の廿一番穴太寺、丹後宮津の廿八番成相寺、舞鶴市の廿九番松尾寺を経て岐阜県の卅三番谷汲山華厳寺をもって終わるものである。

 巡礼は、霊場に詣でて勧詠歌をあげ札を納めた。札所というのはここからきたもので、室町時代には木札を納めたが後には紙札となった。西国三十三か所が定められ巡礼が盛んになるにつれて、国や郡にも三十三か所が設けられ、国西国、郡西国(こおりさいこく)などとよばれた。江戸時代に入ると、遊覧の意味も加えて流行したものである。

 丹波国西国の札所となった何鹿郡内の寺々は次の通りである。(何鹿郡誌)

   一番  下高津村    補陀落山観音寺

   二番  綾部村     那智山正暦寺

   廿八番 上林庄有安村  君尾山光明寺

   廿九番 上林庄引地村  悲喜慈山善福寺

   卅番  上林庄井根村  中照山日圓寺

   卅一番 上杉庄施福寺村 集宝山施福寺

   卅二番 吾雀庄向田村  瀧本山長福寺

   卅三番 八田郷安国寺村 景徳山安国寺

 

 町石

 君尾山のふもとの山道に次の石碑があるのがみつけられた。

 (梵字) 十六丁為悲母五七日追善 永徳二年八月廿五日

 亡母五七日の追善供養としてこの稗を建てたもので、君尾山光明寺までの道のりが十六丁であることを参拝者に知らせようとしたものである。これにより永徳二年(一三八二)のころに相当多くの参拝者があったと考えられ、光明寺の本尊が千手観音であるから、その参拝者は観音霊場の巡礼であったと思われる。また仁王信仰も盛んであったから、その信仰によるものかも知れない。南北朝のころの町石として貴重である。

◎写真【君尾山光明寺 順礼札】234p

 

    第三節 重要文化財と市指定文化財(237p-248p)

 

 重要文化財

   阿弥陀如来坐像 一躯 鎌倉時代 木造粉溜および彩色 寄木造 像高七〇・九センチメートル 安養山医王寺(梅迫町内谷)

 医王寺はもと一寺であったが、現在は無住の一小宇だけとなっており、安国寺の境外仏堂として、内谷の人たちによって管理されている。

 この像は肉身部を粉溜、衣の部分を彩色で仕上げている。如来像はふつう衲衣だけをつけるが、これはその上に袈裟をまとう姿になっており、鎌倉後期彫刻の特色といわれる盛上彩色で華麗な文様をあらわしている。胎内背面に、

 「元享三年(一三二三)三月 日法印堯円」

とあって、この像の製作年代がはっきりしているのは貴重である。堯円は京都の三条仏所の大仏師としてこのころ活躍した人である。藤原時代の優美な阿弥陀像とちがって、宋風の力強い作である。(口絵参照)

 この像は寄木造で、頭部は前後にわかれこれに両肩と膝をつけるが、頭と胴はもと一材であったものを完成後に割ってついだもので、これを割り矧()ぎという。頭と胴を一材で通しておくと像に狂いができるので、古い仏像ではこうした割り矧ぎをしている場合が多い。

 

 重要文化財

   地蔵菩薩半跏像 一躯 鎌倉時代 木造彩色 寄木造 像高(坐高)一三五センチメートル 景徳山安国寺(安国寺町)

 足利尊氏が、元弘以来の戦没者の亡魂をなぐさめ、国土の安穏を祈るために全国六六の国ごとに一寺を建て、一基の塔婆を造ることを発願した。これが安国寺・利生塔の建立である。丹波の安国寺がこの寺で、もと光福寺といった。現在は臨済宗東福寺派に属している。鎌倉時代後期から上杉氏の氏寺となっていたようで、南北朝から後は足利氏の氏寺ともなっている。

 この地蔵菩薩像は温和な藤原様式のすぐれた仏像であるが、各部に硬さがあり、おそらく鎌倉時代の作であって光福寺といったころの仏像と考えられる。左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、左足を折りまげ、右足を垂れさげた半跏の像である。衲衣を着けた胸元に裳の上端があらわされているのは珍しい。もと彩色像であったが、すっかりはげ落ちてしまっているのは惜しい。尊氏の母上杉清子がこの地蔵尊に安産を祈って尊を産んだという伝えをもっており、今も子安地蔵として参詣者が絶えない。

 

 重要文化財

   天菴和尚入寺山門疏(てんあんおしょうにゅうじさんもんしょ) 一巻 南北朝時代 絹本 縦四〇・八センチメートル 長さ二七九・二センチメートル 安国寺

 安国寺の初代住持として天菴妙受がこの寺へ入ったとき、同門の乾峰士曇が書いた祝辞である。乾峰士曇は、京都の東福寺・南禅寺、鎌倉の建長寺・円覚寺など名高い禅寺に歴住し、足利尊氏の尊崇をうけた高僧である。この書は元の書風を自家のものとして端正のうちに鋭い筆法をあらわしていて堂々としている。寺ではこの書を康永元年(一三四二)の書と伝えている。

 

 市指定文化財

   釈迦三尊坐像 三躯 室町時代 木造彩色 寄木造 像高釈迦 一六〇センチメートル 両脇侍各七七センチメートル 安国寺

 安国寺の本尊である。釈迦如来像は宝髻(ほうけい)をゆい上げて宝冠をかぶり、衲衣をつけ、禅僧が坐禅のときするように両手を膝上に重ねる禅定印を結んでいる。肉身部は、金粉をぬった粉溜の技法を用いて金色とし、衣の部分は朱をぬり、胡粉をもりあげて文様をつくる盛上彩色で装飾している。釈迦の向かって右は、獅子に乗る文珠菩薩、左は像に乗る普賢菩薩である。

 

 市指定文化財

   安国寺文書 三巻および巻外一一通 南北朝室町時代 安国寺

 安国寺の寺領に関係した古文書を集めたものである。

   巻一 三四通  巻二 一八通  巻三 一七通  巻外一一通   計 八〇通

 外に別巻の軸物、一枚ものなどの中世の文書や住持の頂相がある。この文書は安国寺を中心に丹波地方の中世史研究上きわめて重要な史料であり、「本市史」にも中世編にたびたび利用しているところである。

 

 市指定文化財

  宝篋印塔 三基 南北朝時代 安国寺

 くわしいことは、金石文の項で述べる。

 

 重要文化財

   卓(しょく) 室町時代 髹漆 高さ一〇二・七センチメートル 甲板、横一五一×幅四三・九センチメートル 神宮山岩王寺(七百石町)

 岩王寺は真言宗高野派に属する古刹である。寺伝によると、村上天皇天暦三年空也上人の開創となっている。その後四〇〇年間の沿革は不明であるが、建武元年には足利尊氏より田地二町を寄進されており、元禄三年ころには寺領七百石を有していた。本寺は式内社島万神社の神宮寺であったといわれ、山号はこれによっている。付近からは硯材として有名な岩王寺石を出す。

 この卓は髹漆(きゅうしつ)の卓というむづかしい名称であるが、漆塗の机という意味である。甲板の下に透彫した宝相華文の装飾をつけ、これを湾曲した四本の脚で支えている中国風の机で、全体に朱漆を塗り透彫の部分は胡粉下地のうえに紅と緑で彩色している。簡潔で優美な姿である、甲板の裏は黒漆塗で、そこに朱漆で銘文がかかれている。それによると永享四年(一四三二)に岩王寺の祐喜という僧がこの卓を作らせて岩王寺本堂仏前の卓として施入したことがわかる。

          銘文

         我之名号 奉施入 丹波国何鹿郡八田郷於岩王寺本堂仏前之卓

   ●(梵字)  □経其耳     為師恩七世殊者二親妙宗禅門理妙禅尼現世安穏後生善処并

 ●(梵字)         右意趣者

   ●(梵字)           六親眷属証大菩薩堤乃至有縁無縁法界衆生平等利益故為

         衆病悉除

         □□安楽    別者信心施主某祐喜息災延命増長福寿吉祥如意施主意趣如件也

                 于 時 永享二二天壬子卯月吉日大願主当寺下坊祐喜年四十一歳敬白

 この卓は現在奈良国立博物館に寄託中である。

 

 市指定文化財

  岩王寺古文書一巻七通 南北朝時代 紙本墨書 縦二七・六センチメートル×長四六九・一センチメートル 岩王寺

 七通の古文書を一巻にまとめたもので、これによって岩王寺の歴史をさぐることができる。最初の一通は足利尊氏の田二町の寄進状で、次が田二町の田数目録、第三が院主祐忍の言上状の写本である。これによって足利尊氏が篠村で反北条の兵をあげた当時の動きや、寺の状況がわかり、さらに田数目録は当時の土地制度がわかる貴重な文献である。

 なお本寺には以上のほか、

   大日如来坐像  像高五七センチメートル

がある。光背や台座も当初のものをそろえた鎌倉時代の作で、快慶の作風に似ているすぐれた仏像である。また本堂の本尊像の前の長押にかけられていた室町時代の作と思われる熊野三所権現の本地仏、千手・阿弥陀・薬師を槌起で浮出した銅製の懸仏があったが、惜しいことに近年盗難にあい、一体もなくなってしまった。

 

 重要文化財

    仏涅槃図 一幅 鎌倉時代 絹本着色 縦一一八・八×横一一九・四センチメートル 那智山正暦寺(寺町)

 正暦寺は前に記したように年号を寺号として与えられた由緒ある寺である。涅槃図は毎年三月十五日に行われる涅槃会の本尊とする仏画で、釈迦がまさに入滅しようとするとき群衆や禽獣たちまでが嘆き悲しむところを描いたものである。この涅槃図は動きのはげしい画面を濃厚な色彩と肥痩のある線を駆使して描いている。おおげさに泣き叫ぶ羅漢、身をころがしてもだえる禽獣の姿には活気と動きがあらわれている。寺伝では室町初期の画僧兆殿司筆ということになっているが、画の描き方からみて鎌倉後期の作と考えられている。現在奈良国立博物館に寄託されている。

 

 市指定文化財

   千手観音立像 一躯 鎌倉時代 素木造 像高一〇〇センチメートル 正暦寺

 熊野那智山の本地仏である。藤原様式の繊細な感じのする像で、鎌倉前期の作と考えられている。

 

   釈迦十六善神画像 一幅 鎌倉時代 絹本着色 縦一三三・三×横六九・五センチメートル 正暦寺

 大般若経転読のときに本尊となる仏画である。釈迦三尊に用いられている太い切金や、十六善神像の動きのある姿勢には鎌倉後期の特色があらわれている

 

 重要文化財

   不動明王像 一幅 鎌倉時代 縦一一五・一×横六三・六センチメートル 塩岳山楞厳寺(館町)

 楞厳寺は真言宗高野派に属し 天平年間(七二九〜七四八)に林聖上人によって開創されたと伝えている。中世には相当な寺領をもっていたが、戦国時代に兵火に焼かれて荒廃した。現本堂は元禄年間に建立されたものである。

 本画像は鎌倉後期の作であるが、明治末年に盗難にあい行方知れずになっていて、模写本だけが残されている。

 

 市指定文化財

   敷地紛失状 一通 南北朝時代 紙本墨書 縦三〇・五×横九〇・〇センチメートル 楞厳寺

 貞和五年(一三四九)三月十一日の年号があり、建武四年に兵火にかかり寺宝・文書・坊舎すべて焼き払われたため、寺領を確認するための文書で、惣追捕使源高康外の記名がある。寺領の範囲を知るほか、当時の在地武士や戦乱のようすを知るために貴重な資料である。

 

 市指定文化財

   大般若写経と経櫃  古代編に記す

 

 市指定文化財

   釈迦十六善神画像 一幅  室町時代 絹本着色 縦二四三センチメートル×横九五センチメートル 楞厳寺

 色彩が剥落し、画面が黒ずんでいるのは惜しまれるが本体はすぐれた作品である。

 

 市指定文化財

  普明国師坐像 一躯 室町時代 木造寄木彩色 像高六〇・〇センチメートル 金剛寺(陸寄町)

 国師の名は春屋妙葩(みょうは)(一三一一―一三八八)といい、夢窓国師の弟子で京都相国寺・鹿王院の開山であり、将軍義満からはじめて僧録に任じられた高僧である。一時舞鶴の雲門寺に隠退したことがあり、京都より舞鶴への途次、この地にあった紫玉庵に歩を止めたという。京都へ帰った後、紫玉庵の隣に一寺の建立を義満に願い出たが、その実現をみたのは妙葩没後四年の明徳三年(一三九二)である。紫玉山金剛寺と称し寺領二百石を与えられ、等持寺殿(尊氏)の香華道場としたと伝えている。(金剛寺中興略記)

 こうした縁により、普明国師の木彫が金剛寺にまつられることになった。妙葩の肖像彫刻はきわめて少ない中に、本寺のものは没後あまり隔たらない時代に作られたと思われるすぐれた作で、禅僧らしい意志的な性格があらわされている。表面彩色は後世に塗りなおされている。

 裳裏面に朱書の銘が書かれている

   彩色

    為鳥垣与介夫婦菩提也 施主 世話人 多郎へ

                      多郎右衛門

                      □□代

 

 市指定文化財

  白衣観音図 一幅 室町時代 紙本淡彩墨画 縦九二・六センチメートル 横三七・八センチメートル 梅林山玉泉寺(武吉町)

 玉泉寺は臨済宗南禅寺派に属する寺で、この観音図は霊彩筆と伝えられている。霊彩は室町時代中期の東福寺の画僧で、明兆の弟子である。この図はねばりのある線で描かれ、人物が画面に比して小さく、周辺に景物が配されて山水画に近づく趣きをもっている。現在京都国立博物館に寄託中である。

 

 市指定文化財

  地蔵菩薩半跏像 一躯 鎌倉時代 木造 像高八一センチメートル 集宝山施福寺(上杉町)

 施福寺は現在無住となっているが、真言宗高野派に属する寺院である。

 この像は彫眼のきわめて端正な相好であり、袈裟や着衣の表現にもほとんど破綻がなく、よく洗練されている。相好のうち、唇のあたりにいくぶん渋味をたたえた厚味の表現だどから鎌倉時代でも早い時期の作と考えられている。ただ右手足が破損しているのが惜しまれる。

 

 市指定文化財

   阿弥陀如来立像 一躯 鎌倉時代 木像寄木造 像高九五センチメートル 東谷山極楽寺(自道路町)

 極楽寺は臨済宗東福寺派に属する寺院である。この像は現在では来迎印を結ぶ阿弥陀如来像と考えられ、本寺でも阿弥陀如来と伝えている。しかし服装がいわゆる清涼寺式釈迦如来像の形式をとっていることと、印相をしめす両手足が後補であるため、当初より阿弥陀如来像として造立されたかどうかという問題がある。しかし頭部の形式や和様の面部などから考えて、珍しい像容の阿弥陀如来像といえよう。寄木造、彫眼で、両肩より別材で正中矧ぎ背板も二枚に分かれる。衣文が形式化の極に達し側面が扁平であることや、相貌の堅さなどにより鎌倉時代の作と考えられる。(口絵参照)

 注 文化財の説明の多くは府教委編「京都の文化財丹波篇」による

◎写真【天菴和尚入寺山門疏】239p

◎写真【卓 (岩王寺)240p

◎写真【仏涅槃図(正暦寺)243p

◎写真【普明国師像(金剛寺)245p

◎写真【白衣観音図(玉泉寺)246p

◎写真【地蔵菩薩半跏像(施福寺)247p

 

    第四節 淵垣八幡神社と中世の神社建築(248p-258p)

 

 1 淵垣八幡神社本殿(248p-253p)

 本殿は三間社流造の建築で、元文四年(一七三九)に淵垣村の氏子講中が再建したものである。身舎と向拝の各柱間に備えられた蟇股は、割合よく整った形をもち、この地方における江戸中期ごろの特色をよくしめしている。

 この社殿の注目される点は、一部に江戸時代以前のかなり古い細部形式をもった古部材がのこされていることである。向拝部分は全く江戸期のものであるが、身舎部分では身舎の円柱十二本・長押・頭貫・大斗および妻飾りの大瓶束・花肘木などが古材として指摘できる。また身舎内部の内外陣を区画する板扉や幣軸なども、これらと同じかそれに近い古さのものと考えられる。

 身舎の柱位置は古い時期のままと考えられるが、もとの隅柱を内柱にするなど相互間の転用が認められるから、旧規を踏襲し、前身社殿の遺材を利用して建て直していることがわかる。社蔵の元文四年棟札には、康永二年(一三四三)に建った社殿が年を経たので、破損したところを改めて再建したという意味のことが書いてある。現に康永二年の古棟札がのこり、元文に至るまで焼けなかったようだから、前身社殿は康永二年の建立と考えられる。したがって遺存する古材は康永二年造営に関わるものということになる。このことは、次に述べるように、古材の細部形式の点からもうなずかれることである。

 古材の時代性を最もよく示すのは妻飾に用いられている大瓶束と花肘木の形式である(A)。大瓶束頂部を飾る花肘木は絵様をもたず、繰形も単純で直線的なものであり、上端は水平である。大瓶束は断面円形で頂部はゆるやかな粽(ちまき)をもち、足もとは直線的にすぼまり、両側をえぐるだけの簡単な装飾にとどまっている。これらの形式は禅宗様に属するが、それらの類例と比較すると、鎌倉末から南北朝にかけてのころの禅宗様初則の古制を示していることがわかる。

 図BCは柱貫木鼻と大瓶束頂部から棟行にでる木鼻の形である。花肘木の場合と違って上端が先方で一段もり上っている。この上には現状と同じく連斗をおいたと考えられるが(連斗・巻斗には古いものがない)、大斗と連斗との高さ位置を調整するためにこうした手法が用いられる。ただ一般には、このもり上りは一材から造り出されるのであるが、ここではもり上げ部分は別木をはぎ合わせてつくっている。(上図破線上部)禅宗様では頭貫は台輪をうけるためかならず上部は水平になるが、ここでは台輪を用いないものの頭貫はほんらいの技法にしたがって水平につくられ、ついで必要なもり上げ分をはぎ合わせたものと思われる。このように考えると、当社のはこうした手法が定着するに至るまでの過渡的な例であろうと考えられる。

 当社所蔵の康永二年の棟札は次のように読める。

                                                   〔藤〕カ

                                                  大工□□[  ]

      ()(婆訶若)      歳次      () ()               御奉行沙弥

 天地八陽神呪□娑□□□宮御宝殿 康永弐  六月十一日造営□所願成口也 従五位上伊賀守兼兵部大輔源朝臣頼章

                    癸未      〔矣〕カ                  同御奉行

                                                  僧 慶秀

                                                   □

                                                  〔右〕カ 

   尖頭形、総長二〇二・〇、側長一九九・二、幅一六・二、厚さ二・一(単位センチメートル) 杉材 ヤリカンナ仕上 ( )内は元文四年時の棟札写しによる。

 これによると、康永二年時の造営は、当時の丹波守護仁木頼章によるものであり、「所願成就」といういい方からしても、頼章側から積極的にすすめた事業であったように思われる。造営の実際に当っては頼章の家人と考えられる沙弥某と僧慶秀とが奉行となった。仁木頼章がこの造営を行った意図は明らかでないが、足利尊氏によってこのころに行われたと考えられる篠村八幡宮の造営にならったものであろうことがまず考えられる。

 この社のある八田郷は、よく知られるように足利氏にとって因縁のある土地であり、光福寺(後の安国寺)や岩王寺などすでに尊氏の庇護をうけていた寺院もあった。この地が社地としてえらばれたのもこうした背景にもとづくものと思われる。

 こうしたことを念頭においてもう一度この社殿をみなおすと、注意されてくるのは、この社が三間社であることと禅宗様の混入が強いという二点である。中世における社格は、複合した諸要素をもとにして定まってきたものであろうが、それらの諸要素の中でもとりわけ施主の地位というものが大きな比重を占めたと考えられる。近世の例をみても、村人達によってのみ奉祭される神社の社殿は、たとえ規模が大きくても一間社であるものが多く、官社的な性格を帯びるものや、権門勢家を願主に仰ぐものには三間社・五間社であるものが多い。中世でも同様のことがいえるのであって、丹波の場合でも丹波一宮である出雲神社本殿(一四四五年建立)は三間社であるが、名主層を施主としたと考えられる梅田神社本殿(一三三八年建立)は一間社である。こうしてみると、社殿が三間社であることは、淵垣八幡宮が頼章にとっては大事な意味をもつ高い地位を与えられた神社であったことを考えさせる。

 つぎに禅宗様混入のことであるが、丹波地方で禅宗様細部が和様建築の中にとり入れられる例は、嘉暦二年(一三二七)建立の大福光寺本堂において見られ、ついで梅田神社本殿において認められる。淵垣八幡神社のはこれらにつづく例であるが、前二者が比較的末梢的で部分的なとり入れ方であるのに対し、ここのは構造的なものにまでおよび、かつより純粋な形での禅宗様がとり入れられている。禅宗様導入の問題は、施主・造営奉行・工匠等にかかわることなのだが、この場合施主が守護であるということは大きな意味をもっていると思われる。守護の権力によって工匠の自由な起用もでき、新様式の導入もより容易であったろうからである。棟札において大工の姓名が明らかにされないのは残念だが、「大工」の文字の下に「藤」らしき文字がみえ、その下の字は「井」とは読めないから「藤原」ではないかと考えられる。室町時代以降は番匠大工の大部分が「藤原」を名のるが、南北朝以前においてはかならずしもそうでない。したがってある程度その姓から系譜をたどることもできようが、丹波全体として知られうる資料がすくないのでおよそのことも今はいえない。ただ篠村八幡宮の創立時の大工が藤原為貞であったが、(篠村史)尊氏―頼章のラインでこの大工が来た可能性もあり得ることを指摘しておきたい。なお棟札の最初に書いてある「天地八陽神呪経」とはインド伝来の古い仏典の一つであるが、このような字句がとりあげられていることの意味を考えてみなければならないが、この点は後考にまちたい。

 西丹波地方は中世の神社遺構が非常に乏しい。その中で、部分的にしかのこっていないとはいえ、南北朝にさかのぼる遺構が存在していたことの意義は大きい。それだけでなく、様式史的にも面白く、造立事情もほぼ知られるという点でも貴重な遺構である。

 

 2 阿須々伎神社本殿(253p)

 一間社流造りの建物。幣殿をはさんで拝殿とつながり、茅葺(トタンかぶせ)の覆屋に収まっている。屋根は柿(こけら)葺で、身舎三方に大床をめぐらし、向拝部も浜床とする。正面は格子戸四本を引き違いにしてたてる。身舎部は出組とし、向拝部も斗・肘木を二段にする。また身舎の正面と左右柱間中央に蟇股をそなえ、妻は虹梁上に大瓶束をたて笈形を加えていて、にぎやかな構成になっているが、全体としては比較的すっきりとまとめられている。屋上には千木・勝男木があるが当初のものかどうか擬問である。蟇股や木鼻の形式からみて、一七世紀中ごろの建築と推定される。

 

 3 阿須々伎神社摂社大川神社社殿(253p-254p)

 本殿の東側にあって覆屋に収められている。かなり破損していて、葺材・破風板はなくなっている。もとは板葺であったと推定される。全体の構成は本殿と同じであるが、本殿にくらべると簡素で、身舎柱上は組物を用いず舟肘木とし、軒は疎垂木とする。実肘木にも絵様をつけない。向拝虹梁中央上部にだけ蟇股が備えてあるが、蟇股の輪郭は硬く上手なできばえとはいえない。虹梁木鼻や身舎大瓶束の繰形や虹梁絵様は比較的古様を示すが、丸桁や棰にそり増しがないことなどからみて一七世紀の初めごろか中ごろに建ったものと推測される。本殿とともに市内では屈指の古さの神社遺構である。

 

 4 中世の神社棟札(254p-257p)

 綾部市内の神社には、中世の建築を示す棟札がいくつか残されている。現社殿はその後に改築されているが、古い棟札も再建時の棟札と共に残されていて、建築の由緒がわかるだけでなく、中世の村落を知る上で重要な資料となるものである。

○淵垣八幡神社  淵垣町奥ノ谷       前に記したので略す

 

○藤波神社    西方町多部田

 旧本殿壁板墨書銘 正安三年(一三〇一)

    長二三九・七  幅一七・七  厚一・三(単位センチメートル) 挽材

   大勧進正地頭河村之後家尼御前 大工[()]氏 正安三歳次辛丑二月廿七日建立

 両端が溝に入っていた形跡のある壁板に一行に墨書きしている。旧社殿の棟木又は棟札銘を改築時に写したものと思われる。

 旧本殿棟札     天文五年(一五三六)

   尖頭形 総長一〇八・〇  側長一〇七・〇 上幅九・〇  下幅一〇・〇  厚さ一・三〜一・七 (単位センチメートル)

 杉材で皮剥面を表として墨書している。

 當社大明神 大工次郎太夫孫左衛門権守孫八大菩提故也于時天文五丙申三月廿二日棟上敬白

 

○室尾谷神社   五津合町寺内

 本殿棟札     元応元年(一三一九)

   尖頭形 総長四七・三 側長四五・七 幅一三・〇 厚さ〇・四(単位センチメートル)

   當社建立者正和二年癸丑自四月廿八日始之同七月廿七日棟上

   同十月十日宮移其後経七ケ年元応元年已末(ママ)六月之比葺之建立

   之大土()南都巧匠末子宗高葺之大土()丹後国番匠藤原国家

   自建立之始[]□葺之終所入用途彼是百貫文同口合力口人

   祈現世悉地萌後生善苗也 大願主僧□□□心口[]氏人ホ□□

                元応元年七月 日

 安永八年(一七七九)新社殿を造り旧殿を廃した。この時に元応の棟札を読んだ大町村の波多野茂雅は、宗高を社殿の大工、国家を覆屋の大工と解している。

 

○十二所神社   老富町光野

 本殿棟札    永禄十一年(一五六八)

   長方形 長さ一〇六・九 上幅一四・五 下幅一五・五 厚さ一・七(単位センチメートル)

   松材 台鉋仕上

           永禄十一年  宮移之時長楽寺光乗院同待従公両人也ホウリハ光野村衛門也

 當村三所権現之宮奉造立所本願光野村権守其外原口船迫尾見光野田谷氏子トモ各々

           八月廿五日  大工者[()]尾ノ大郎左衛門三郎五郎光野々彦次郎也

             (裏面文字ナシ)

 

○白髭神社    故屋岡町黒土

 本殿棟札写    暦応三年(一三四〇)

 棟札写が巻物とされている。読めなかった字もあったとみえ整っていないところもある。

                                                柏 宗貞 藤井行末          沙弥信収

         庚    壬       庚 居礎       甲      藤原吉継    藤井氏延 藤原宗氏   随縁房      堯

 当社造替暦応三年 八月五日 手斧始十月廿日     十一月十五日 上棟 大工      小工 清原栄成 藤井国光 鍛治    檀那 沙弥道 番匠人数 本社造立建治二年丙子

         辰    寅       子 立柱       子      清原宗行    同 宗治 藤原高継   五郎次郎   清原仲継三百三十人春秋六十五年造替之

                                                     同郷鶴丸

 

 5 木造狛犬(257p-258p)

 神社には社前に一対の石造狛犬がたてられていることが多い。狛犬というのは、中国や朝鮮を経て日本に伝えられた犬という意で、もとは獅子であるが日本ではしだいに象徴化されて変形し、犬とよばれるものになった。神社の守護ないし荘厳の意匠として造られたもので、中世に入ってからは地方の神社でもつくられるようになった。神社の内陣・鳥居付近などに供えられるが、社殿の内部に配された木造小型のものが古いと考えられている。

 いま綾部市内のほとんどすべての神社に石造狛犬が建てられているが、これらは近世に造られたものである。さらに木造狛犬がおかれている神社も多く、そこでは内陣に配されている。この木造狛犬はいずれも中世に造られたもので、形はさまざまであって、地方色豊かな土俗的なにおいのするものである。これら木造狛犬のうち二例について述べてみよう。

 高津八幡宮の狛犬 この社は明応九年兵火にあって焼かれたと伝えられ、焦げあとを残す狛犬一対が残されている。阿形の方は焦げかたが甚だしく、顔部や両脚を欠いているが、呍形は左脚の一部を欠くだけでよく整っている。たてがみが様式化されているが、全体の形の均衡がとれたすぐれた像であり、鎌倉時代の作といわれている。

 藤波神社(西方町)の狛犬 この神社には木造狛犬が二対ある。一対は鎌倉時代の作と思われるもので、高さ五八センチメートル、彩色されており、たてがみが豊かで脚のふんばりが力強く、すぐれた作である。他の一対は、高さが四六センチメートルと四七センチメートル、頭が大きく装飾のほとんどない素朴なものであるが、その稚拙な彫りの中に何ともいえない味わいがあり、面部のおだやかな表情には当時の農民のすがたを想像させるものがある。天文年間に神社が再建されたとき、地方の作者によって造られたものであろう。

 この他にも、赤国神社・淵垣八幡神社・白鬚神社などに中世につくられた木造狛犬が残されている。

◎挿図【図A249p

◎挿図【図B250p

◎挿図【図C250p

◎写真【棟札下部(淵垣八幡神社)251p

◎写真【木造狛犬(高津八幡宮)257p

◎写真【木造狛犬(藤波神社)258p