ようこそ私市円山古墳公園へ

古墳の周辺

 

 由良川中流域には、遺跡地図に載っているだけでも1,000基を超える数の古墳があります。それらの大半は、小さな方墳または円墳であり当地には全長100mを超えるような大型の前方後円(方)墳は見当たりません。しかしながら、聖塚古墳や私市円山古墳のように前方後円墳に匹敵する巨大な方墳、円墳が存在し、当地域独自の古墳文化を形成しています。
 当地にあっては、由良川に注ぐ各支流がそれぞれ地理的な小世界を形成し、各々の古墳群を分布させています。それらは、集落を母体として、比較的大型の古墳を中核に、群を形成しています。
 次に当地の古墳時代の縦の変化をみると、前期にあっては、弥生時代の墓制を色濃く残しています。すなわち、副葬品等に充実がみられるものの弥生時代の方形周溝墓の系統をひく小規模な方墳が主流です。景初4年銘鏡で有名な広峯15号墳のように前方後円墳のような、新しい萌芽があるものの、そのまま当地で発展することなく、古墳時代中期前半まで方墳優位の時代が続くのです。中期に入ると畿内的影響を強く受け、聖塚古墳や私市円山古墳のような古墳として定型化したものが登場し、ここに当地の古墳時代が花開くことになります。そして、後期の前方後円墳と群集墳の時代へとつながっていくのです。
 

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由良川中流域の主要古墳

 

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墳丘

 私市円山古墳は、作り出しをもつ大型の円墳です。墳丘の規模は、全長で81m・高さ10mを測ります。京都府内では最大規模の円墳であり、由良川流域では、前方後円墳を含めても、最大の規模を誇ります。
 墳丘は、三段築成で構成され、二列の埴輪列を巡らすとともに、由良川から運んだ河原石を葺石として墳丘斜面に敷きつめています。私市円山古墳は、見晴らしのよい丘陵上に造られているため、葺石を古墳まで運ぶだけでもとても大変な作業であったといえるでしょう。
 作り出しは、葺石で方形に区画され、その内側と外側に円筒埴輪を樹立しています。造り出しでは、家形・短甲形等の形象埴輪や土師器が出土しました。ここでは、なくなった首長を偲ぶ葬送儀礼が行なわれたことを物語っています。
 私市円山古墳は、墳丘規模の大きさに加え、外表施設に埴輪・葺石を有するなど、墳丘の築造にあたって、莫大な労力が費やされていることが理解できます。このことは、とりもなおさず、被葬者の強大な政治的権力を如実にあらわすものと考えられます。
 

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復元された埴輪列

 

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埋葬施設

中央の主体部(第2主体部)
 墳頂部のほぼ中央に位置するこの主体部は、古墳の主ともいえる大首長の埋葬された主体部です。
 主体部は、東西方向に軸をもつ墓壙を2段に掘り込み、そこに組合式木棺を安置しています。
 棺内からは、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・錣・鉄刀・鉄鏃・農工具・鏡・玉類(勾玉・管玉・小玉・臼玉)・竪櫛等、豊富な副葬品が出土しました。
 武具や武器は、軍事力の強さを、鏡・玉や農工具は、さまざまな祭祀を司る姿をあらわすものといえます。
 棺の幅や副葬品の配置等から、被葬者は、頭を東に向け、埋葬されたものと考えられます。
北側の主体部(第1主体部)
 北側の主体部は、中央の主体部が造られた後に、北側に隣りあうように作られたものです。2段墓壙内に組合式の木棺を安置しています。
 棺内からは、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・頸甲・肩甲・草摺の武具一式、帯金具・胡簶金具・鉄剣・鏡・玉類(勾玉・管玉・小玉・棗玉)・竪櫛等、豊富な副葬品が出土しました。副葬品の出土状況から、38本の矢が胡簶に納められた状態を観察することができます。
 棺の幅や副葬品の配置等から、被葬者は、頭を東に向け、埋葬されたことが窺えます。
南側の主体部(第3主体部)
 この主体部は、大きさや副葬品の質・量とも中央の主体部と肩を並べる内容をもっています。
 南側の主体部は、南北方向に造られた小さな主体部です。
 ここからは、鉄鏃と農工具がそれぞれまとめられた状態で出土しています。
 この主体部には中央の主体部の首長に従属した人が埋葬されたのではないかと考えられます。
 

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私市円山古墳平面図

 

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由良川の王者

 私市円山古墳の築造された時期は、出土した副葬品や埴輪から、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と考えられます。
 当地域では、前方後円墳よりも、大型円墳の私市円山古墳と大型方墳の聖塚古墳の存在に大きな特徴があります。なかでも私市円山古墳は、その規模や内容から由良川中流域における最大の首長墓といえます。
 私市円山古墳には3人の埋葬が行われていました。中央に位置する主体部とその北側に造られた主体部の被葬者はこの地に君臨した大首長で、2人は親子か兄弟の関係だったと考えられます。2人に副葬された豊富な品々は政治的・軍事的地位の高さを明確に表しているといえます。特に北側の主体部から出土した胡簶金具は国内でも初期段階の製品と考えられる貴重なものです。
 私市円山古墳の被葬者たちは、畿内政権と密接に結びつき、多くの品々を手に入れるとともに、その一員として大いに活躍をしたことでしょう。そして由良川中流域では、かつてない強大な権力を築きあげるに至り、死後においてもその力を誇示するように大きな墓を造ったのでしょう。
 母なる由良川とその地域を見おろす私市の小高い丘陵は、由良川の王者たる被葬者が眠るにふさわしい場所だったのかもしれません。
 

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上空から見た私市円山古墳

 

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よみがえった古墳

 私市円山古墳は近畿自動車道敦賀線の建設に伴う事前調査によって新たに発見された古墳です。昭和63年(1988)私市円山古墳の発見が発表されると、綾部市民及び全国から、現地保存の熱い要望が寄せられました。これに応え、日本道路公団は当初の切土工法からトンネル工法へと変更し、古墳は保存されました。綾部市では、こうした市民及び関係諸機関の保存への努力に報いるべく、保存決定後すみやかに私市円山古墳環境整備構想を策定しました。
 この整備事業は、史跡が現代のまちづくりに保存活用されること、開発と文化財保護との調和のひとつのモデルプランとなること、市民の積極的な参加による事業であることなどを基本姿勢とする古墳公園整備事業で、古墳は築造当時の姿に完全復元しました。
 使用した葺石は、60,000個。埴輪レプリカの総本数は897本です。その他、古墳の周辺には広場やあずまやを配し、麓にはイベント広場も設けています。また、照明灯により、古墳を夜空にライトアップさせるなどしました。
 こうして平成5年(1993)5月2日「私市円山古墳公園」は開園し、現在、市民の憩いの場所であるばかりではなく、市外からも多くの入園者を得ています。
 なお、私市円山古墳は平成6年(1994)3月23日に国史跡に、出土品は平成16年(2004)3月11日に府指定文化財になっています。
 

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ライトアップされた私市円山古墳

 

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